しるしなく信じる者はさいわいである
だが幾度もしるしを求め 確かめずには進むことのできぬ者もまたさいわいである
信じよ 信じることを疑う者よ
神がおまえに幾度もしるしを与え これからも与えることを
そしてなにより 神のしるしはもう おまえの魂のなかにあることを
最近、聖書を読む前に祈ることにしている。今日自分が求めているものを、自分の苦しみを癒す言葉をくださいと。
それからページを開く。どこを開くかは自分にもわからない。神と指先だけがその場所を知っている。
昨日はギデオンの物語に当たった。士師記の6章から8章にかけてが彼の物語である。ギデオンは小さな部族の末子で、まったく知られていない者だった。だがある日主の使いがやってきて、ミディアン人との戦いのために彼を召し出す。
ギデオンはおそらく非常に慎重なたちの人間なのであろう。何度も神に確かなしるしを求め、神はそのたびに応じる。やがてギデオンはミディアン人の陣営に乗りこむことになるが、その前に、神はギデオンと従者を敵陣に連れていき、勝利を確信させるような会話を聞かせている(しかも神はこのとき、もし一人で行くのが恐いなら従者を連れて行ってよいと云っている)。
神はギデオンの慎重な魂に、実に細やかな配慮をしている。ギデオンばかりでなく、自分が選んだ人間に対して、その人格に沿って対応を変えているのである。あるときは横暴とでもいうべき力でもって無理やり召し出すかと思うと、預言者ヨナに対しては怒りではなくユーモアで応じ、おおらかな親しさをもって接している。そしてギデオンの場合には、相手への敬意さえ感じさせるような配慮を見せる。慎重で確信をもつのに時間がかかるギデオンに対して、神は実に辛抱強く、決して怒ることがない。ギデオンに対する神は、子どもにこう云う父親のようである……目をつぶってごらん、怖くなくなるおまじないをしてあげよう。
おそらく神はわたしにも、ギデオンにするのと同じように無限の忍耐をもって接しているはずである。ほんとうならば、わたしはとうの昔に自分の使命も、それにともなう責任も受け入れてしかるべきであった。だがわたしはいつまでもぐずぐずと自信がないまま、迷ったままでここまで来た。神は忍耐している。そして決して急かさない。何度しるしを求めても辛抱強く応じる。そしてわたしの成熟を待っている。
神はおそらく、なんならわたしが与えられた使命など選ぼうが選ぶまいが関係はないとさえお考えかもしれない。たぶんそうだろう。そんなことで神のわたしに対する愛情は変わるまい。だが神はわたしのなかに、自分に負けることをよしとしない高潔さを……これがわたしの最後の、そして唯一の砦である……与えた。わたしにとってはそれが、神の選びのしるしである。
わたしはまったく小さな者だ。召命を受けたギデオンも、自分が貧弱な者であり、家族のなかで一番年下の者であることを挙げて、自分の適性を疑っている。だが神は幾度も幾度もしるしを与え、おそれるギデオンにおそれることはないと告げる。
神の偉大さを信じる。自分の矮小さではなく。神のわざを信じる。自分のわざではなく。ほんとうに、こんなことを、わたしはとっくの昔に理解しているはずだったのである。
最近、易経の勉強をはじめた。そして今日、はじめて易をたててみた。
火風鼎(かふうてい)。易辞:願いごとは叶う。