人の内面的成長に関わる問題は、云うほうも云われるほうも愉快ではない。人の欠点をあげつらうのが好きなやつもいるが、それは話がぜんぜん別である。このことを理解したあとの世界は、もはや宗教的な理想から一種の無味無臭を目指そうとする世界と同じではない。宗教的理想主義で云えば、われわれは常に他者に対しへりくだり、宮沢賢治の云うように決して怒らず、いつも静かに笑っているという人間でなければならない。人間的静寂主義、あるいは一種の天使主義である。
だがわれわれはこの世において天使ではない。天使を胸に飼っていても、天使そのものではない。そのような道は真に神に求められてそうするのでないかぎり、潜在的に多くの義務の放棄をはらみ、自己の成長のみを、それも神の前における自己の成長のみを願うあまりに自己完結した、倒錯した道になる。隠遁を希う修行者における醜さ、あるいは神との関係にのみ注力する者の奇妙な子どもっぽさ。あらゆる義務と痛みを回避することなく生きたのちに神の前に立てる者だけがほんものであろう。われわれは稚拙でまずいコミュニケーションのなかで、互いに痛みを忍ばねばならない。これが世俗で生きることの前提条件なのだろう。多くの者がこの中で神を見出すことに失敗するのも故なきことではない。
痛みを受けたり与えたりすることに対して、われわれがこんなに敏感でなければならないのはいったいなぜであろう。われわれはちょっとした気配にもすぐに気が立って、毛を逆立ててしまう猫のようである。わたしたちは個々に、あまりにも自分の殻に閉じこもってしまっている。殻にこもったままで美しく生きられる人間がいるが、それは非常に特殊な才能であろう。この問題においても、わたしは中間の半端なところにいなければならないのだろう。おのれの行為を悔いることのない人間には、わたしはなりそうもない。だが悔いることが罪である場合があり、自己自身と神への離反である場合がある。意志を貫徹することには、非常に多くの犠牲が伴う。責任をまっとうすることにもまた、同じような犠牲と殉教とが求められる。この問題は実に多くの現象をともなって、社会を形成しているように思われる。