スウェーデンの作家、ラーゲルクヴィストの『巫女』という小説をたまたま古本屋で見つけ、前日から貪るように読んだ。
ゴルゴダの丘に向かう途中のイエスに呪いをかけられて死ねない体になってしまった男が、自分の未来がどうなるのかについて助言を求めて、かつてデルフォイでもっともすぐれた巫女と讃えられた老婆のもとを訪ねる。男の訪問をきっかけに、巫女は自分の過去を語る。巫女はかつて神に選ばれ、神を体験し、神とひとつになった女であるが、その彼女が云う。「神を見るってことは嬉しいことじゃない」
男もまた神を見た。彼が呪いをかけられたのは、自分の家の壁にもたれてひと休みしていた罪人イエスに対して、そこをどけと云ったためである。イエスは云う。「わたしに休息を拒むならば、おまえもまた永久に憩うことのできない身となるであろう」
男には納得がいかない。誰も罪人とは関わり合いになりたくない。おれはみんながするようにしただけだ、それなのになぜ自分だけが呪われ、神にとらわれ、苦しい思いをしなくてはならないのか。
巫女は答えて、自分と神との美しく、醜く、甘美で、苦しい関係を語る。彼女もまたなぜかもわからぬまま、ただ神に選ばれ神を体験したのである。神の残酷さ、嫉妬深さ、無情さ、嘲笑、呪い、人間であり得るはずがなく人間の幸福など理解もしない神を彼女は体験したのである。彼女はそれと知らずに神の子を産んだのであるが、その子どもは白痴であり、奇妙な薄ら笑いを浮かべているだけの存在である。同じく神の子の母であるマリアが祝福に満ちた存在であるなら、この巫女は徹底して神の呪いに満ちている。だがそれでも神は神なのだ。神にいいように利用されあざ笑われてもそれでも、神という存在は決定的な、宿命の存在であり、それにとらわれてしまった以上神を求めずにはいられないのである。愛しながら憎み、憎みながら愛さずにいられない。それが神である。
いつも考えるのだが、もしもわたしの信じることのすべてがうそであり、神というものはわたしを騙し利用するだけの存在だとしても、それでもわたしはやはり神を信じるであろう。裏切られることまで含めて愛するのが神である。神とはそのような存在であり神を愛するとはそうしたものである。ほかのいかなるものともとりかえることができない、ただひとつの宿命的な存在、存在を超えた存在が神なのだ。
巫女は男に語る。
「お前さんは自由じゃない、あの方にくくられていなさる、あの御仁はお前さんを離すつもりなぞないことがよく表れておる。あの御仁はお前さんの運命じゃ。お前さんの心はあの方で一杯なんじゃよ」
この小説から、わたしはさまざまなことを学んだ。以前、同じくスウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴに救われたことがある。彼女からも非常に多くのことを学んだ。長編小説『エルサレム』の主人公イングマル・イングマルソンはしばらくわたしの心に住み続けていたし、いまもいる。ラーゲルクヴィストが神の呪いを徹底して見つめているなら、ラーゲルレーヴは神ともう少し理性的で建設的な関係を築いており、落ちついた穏やかな目で神を見つめている。
いまわたしはより踏みこんで、神の呪いの現実を見つめなければならない。とはいえ、神はわたしを呪わない。わたしはそれを知っている。イエスがいつも云うのはこのセリフである。「わたしはおまえに知ってほしかったのだが……」
一日の終わりに、暖炉の前で、揺り椅子に座って語り合うひと組の男女。夫婦というよりつれあいという言葉がしっくりくる男女。神の打ち明けばなしの相手になるということはどういうことであろう。そうであった人はきっと過去にもいるのだろう。その人物には人間として到達可能なかぎり最高度の成熟が必要とされるに違いない。その自己はわたしが普段意識しているわたしではないが、わたしの中にいるのである。それは夫の前でだけ姿をあらわす自己に近いだろう。夫と向き合っているときしかわたしはわたしではないというような女がいるとしたら、それはわたしのことである。
わたしは神が戻ってきてほしいと云っているのを感じる。自分のものであるわたしに戻ってきてもらいたいと云っているのを感じる。そしてふたたびふたりで一日の終わりに、火を囲んで話し合いたいと云っているのだ。わたしがくつろいで足の裏をあぶり、神は物憂げな顔で火を見つめている。寝る前に、わたしは火のなかにその日の憂いをみんなくべてしまう。神は立ち上がり、火を消して、光に背を向ける。わたしは神の暗がりと背中を見る権利を得る。男の背中を見るのは女であり、女の裸を見るのは男である。