わたしはこれまで、もうずいぶん貨幣のことを考えてきたし、労働のことを考えてきた。マルクスによれば、共同体的秩序が解体された社会においては、個人は原則として自分の好みや環境やその他の要因によってそれぞれにものをこさえたりとってきたりするわけである。だがそれだけでは人間生活に必要なすべてをまかなえないから、自分の生産物を通して他人の生産物を手に入れる、ということが必要になってくる。
とはいえお互いの生産物を交換しようというとき、そこに共通の交換基準を即座にみとめることは困難である。だから、あらゆる生産物を相互に交換させることができるために、共通の価値をつくりださねばならないのだが、この価値を貨幣の形で表現したものを価格というわけである。このような社会では、すべての労働生産物は価格のついた価値物として扱われねばならず、この価格に紐づけられた共通の価値を持ちえないものは商品になりえない、というわけである。
なんでこんなことを書いたのかというと、わたしがこしらえているものは、本質的に商品になりえないし、商品として価値体系に組みこまれてゆくこともできない、というよりそもそもそうしたものを拒絶しているわけである。これはわたしの確信であって、自負でもあるわけだが、この自負に率直に生きてゆくとき、わたしは貨幣というものを得る能力も行使する能力も失う。それはそれでよく、そのように生きていける人は幸運な人である。それは神がその人をそうしたことがらから守っている、あるいはそうしたことがらを学ぶことを免除しているのである。
わたしはこの意味において、確かに神からもアッラーからも仏からも加護を受けていたのである。というのも、これまでわたしは体のこともそれを生かすための収入ということも考えることなく、実にのんきに生きてくることができていたわけで、おそらくこのままだったら、わたしは一生自分がどこに生きているのか……あるいは生きているのかどうかそのものさえも……わからなかったかもしれない。ところが、ここに突如、麻原彰晃を発端としてわたしに対話を挑んでくるわたしの体というものが出来してきた。とすると、わたしはこの体というものをもった人間であるという認識から逸れるわけにいかなくなり、体から逃れるわけにいかないということは、確かにこの現実を、この現実の法則にのっとって生きねばならぬ破目に追いこまれたというわけになる。
誤解してもらいたくないのだが、わたしは体を呪ってはいない。少なくともいまはそうである。わたしはいま、自分が体をもち、この現実に場所と空間を占めている生き物であるということを、なんとなくこそばゆいような妙な気持ちで見ているのである。この数か月のヨガ三昧のおかげで、わたしの体はずいぶん柔軟性を帯びてきた。以前には考えられなかったほどである。この柔軟性を帯びて蘇る体、わたしの働きに応じる体というもののことを、わたしはやはりもう少しよりよく生かしたいような気分を、いま持っている。そして悲しいことに、わたしの体をよりよくするにはわたしの財政はあまりに乏しいのである。
神は実に長い時間をかけて、上記のようなことをわたしに知らせ、わたしが現実にこの世を生きている人間であるということをわからせようとしてきたのであるが、これはわれわれ雲ホトトギス国(D・L・セイヤーズ氏云うところの詩人や芸術家の住処)の住人にとっては確かにひどい矛盾であって、恨みごとのひとつも云いたくなるわけである。この恨みごとを、わたしはたくさん神に云ったように思う。そしてこの恨みごとのなかで、長いあいだ息をし、暮らしたように思う。
神の腕に抱かれて恨みごとを云うのはすばらしい時間であり、子どもらしい甘えの時間である。この時間のなかに、またすべての子どもの時間も眠っているわけで、わたしはこの子どもの楽園をまったく手放してしまうつもりはないけれども、でもやはり人は、アブラハムの膝とか神の腕の中にいるだけではなくて、アブラハムとともに山を登り、神の片手を引いて行かねばならない。
この引いて行くというのは、子どもの楽園においてよく行われる、子どもが母親の手をひっぱって自分の見つけたもののところへ連れて行くことに似ている。愛情深い母親は、子どもが懸命に自分の手を引いて、まっしぐらに走ってゆくのを見ているであろう。そしてその子どもの見つけたもののなかに、子どもの目と心と成長とを見るだろう。そんなようなことだ。神の楽園を離れてひとり外に出、見つけたものを神に見せる義務のようなものを、わたしたちはそれぞれに負っているのではないか。
幸い、わたしはこれまでいつも、どこかしらからお金というものを手にしてきた。わたしのまわりの人たちと神とが慈悲深いおかげである。これは幾重にも感謝をしなければならないことだけれども、わたしはかつてまっとうな労働者になることに挫折したせいで、金銭を得るということにトラウマめいたものを持っているのである。それはわたし自身の破壊のようであった。ようであったのではなくて、事実そうであった。書くということはわたしの都合など考慮してくれない非常に支配的な側面があるので、この支配的な側面と、経済活動とよべるものとのあいだに、なんらかの妥協が成立するのかどうか、神も仏もまあ見ているがいいのだ。
ずいぶん威勢のいいことを書いたが、じゃあわたしがこれからなにをするのかということは、実はよくわからないのである。そのために必要なことは、これまでやってきたことの向きを少し変えるものに過ぎないような予感がすることもあるし、まるで別なことであるかもしれない。わたしはまたずいぶん苦しみ、わたしの自我のうちにあるいろいろなものを削ぎ落さねばならないかもしれない。だが余分なものを削ぎ落すことがわたしの生命に課せられたひとつの大きな課題であってみれば、わたしの苦しみなどは、小さなことであるだろう。わたしがわたし自身でありえないような境地まで進みそうになってしまったときには、きっと神が警告してくださるだろう。