引き延ばしというのは人生のあらゆる場面において行われる。引き延ばしは、多く怠惰から来ているものではあるが、肝心なことを引き延ばそうとするのは、たいてい不信が原因である。やったからってどうにかなるはずがないとか、そんなことで事態が変わるとは思えないとか、できる気がしない、うまくいくとは思えない……等々の、自己と人生に対する根ぶかい不信である。
人生に不信を抱いているほうが、信を置くよりも楽であることは確かである。うまくいかなかったときに、あまりひどくプライドを傷つけられないですむ。が、そもそもこの世の目から見てうまくいくとかいかないとかを判断することは、非常に傲慢なことである。このことを得心できないでいるあいだは、信仰者としてはなはだ底の浅い人間だといわねばならない。
昨夜、『歎異抄』を読んで眠りについた。前回この本を読んだのは、もうずいぶん前のことだと思う。そのときはひたすら感激して読んだのであるが、いまは唯円が描き出す親鸞という男に、無限の共感をおぼえる。
親鸞はおのれの業と煩悩を信じきった男だ。それらをひたすら信じるゆえに阿弥陀仏の救いを信じる男だ。仏の慈悲は、もっともたちの悪い、もっとも無能で救いがたい人間の上におよぶのでなければ、なんの意味があるだろう。たいていの人は、自己の煩悩の存在を彼のように痛感し信じきることができない。というより、そんな考えを長く胸の中にひそませておくことができない。だが親鸞はそれを徹底して感じ信じているゆえに、南無阿弥陀仏の念仏を信じ、阿弥陀仏の救済を信じ、極楽往生を信じている。彼は自己の力で救済に近づけるなど、少しも信じていない。彼は自己を少しも信じない。そんなことをすれば、それは阿弥陀様の無限の慈悲、衆生救済の誓願、阿弥陀様の救済能力への反逆である。
このことがわからない人は、要するに、こういうタイプの宗教家でないということだ。わたしはこのことが真実だということがわかる。神と話すに値するものは誰もいない。西方浄土に生まれ変わる資格のあるものは誰もいない。そのゆえに、神がわたしに顔を向けるのであること、このことだけを知っていなければならない。神に顔を向けられるということは、それだけ救いがたいということである。もしも自分で神を見いだせるような能力のある人であれば、自分で神を見つけるだろう。ところがわたしにはその能もないわけである。だから、もうどうしようもないので、神は自分というものをわたしに与えることにしたのだ。
わたしはわたしの心にいやおうなしに植えつけられた信仰に忠実でなければならない。ことを起こし、破滅させ、成就させるのは神である。わたしはわたし自身のあらゆる感情を討ち滅ぼして、ほんとうにそのことを信じるべきときに来ている。
ところで親鸞は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という発言をしている。
「さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
これがわからない人は、理性的な人ではあるが、愛する人ではない。