聖書ノート:受難の前の苦しみ

ルカ福音書22:39-46 オリーブ山での祈り

 それから、イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスにしたがった。いつもの場所に着くと、イエスは仰せになった。「誘惑に陥らないように祈りなさい」。そしてイエスご自身は、石を投げて届くほどのところへ行き、ひざまずいて祈られた。「父よ、お望みなら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、み旨が行われますように」。すると、み使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみ悶え、さらに熱心に祈られた。汗が血の滴のように大地にしたたり落ちた。イエスは祈りを終えて立ち上がり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみの果てに、眠っているのをご覧になった。イエスは彼らに仰せになった、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈りなさい」。

・並行記事:マタ26:36-46、マコ14:32-42、ヨハ12:27、18:1
・オリーブ山……エルサレムの丘の東側に、小さな谷をはさんで在する丘。海抜800メートルほど。ゼカリヤ書14:4において、主の日に、主の足がこの山の上に止まる、とある。そのためオリーブ山には墓地が造られ、著名人の墓も多い。
・悶え=アゴニア(αγωνια=anguish) 心身の激しい苦しみや苦悶を指す。イイススが受難を前に激しく苦しみ悶えたということ、血の汗を流すほど激しい苦悶に襲われたということ、そして「できることならこの杯を取りのけてください」と云ったことの意味を、よく考えなければならない。

 イイススが神殿から商人を追い払ったとき、ゼカリヤ14:21「その日、万軍の主の家にはもう商人はいなくなる」が念頭にあったのだろうか。すべてが主に捧げられるものになり、すべてが聖なるものとなれば、貨幣経済は存在意義を失い資本主義は終わる。わたしはこの可能性をほんとうにまじめに検討したいが、こんなことをこの世で実現するのは、それこそこの世の終わりまで不可能だろう。

 聖ルカは医者なので、医学用語「トロンボス」(血栓の意)を用いて「血の混ざった汗」がイイススの体からにじみ出たという描写をする。ただし、43-44(み使いが現れたくだりと、血の汗を流したくだり)は多くの写本で欠落しており、真正性が疑われてもいる。

 ヨハネ12:27では、イイススは自らの死を予告して、こう云っている。
「今、わたしの心はかき乱されている。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。父よ、み名の栄光を現してください」
 これは人間にとって一大事である。人がイイススのようになるために生まれるとすれば、わたしたちはこのようにならなければならないのだ。すなわち、自分の受ける苦しみを、進んで受けること。進んで主のために自己を捧げること。このとき、自己というものはその働きが止滅しているとか存在が滅却されているとかいうのではない。かぎりなく自己が自己を保ちつつ、それは主と一体となるのである。
 わたしにはその道は閉ざされているように思われる。あるいは、主はわたしがあまりにも急激にそちらへ近づいていくことをお望みでないようにも思われることがある。確かに主はわたしについて、ある種態度を保留する。わたしたちのあいだには、奇妙な感情的な間がある。その間においてわたしは漂っており、主もまた漂っている。神とわたしとのあいだのこの感情的空白を創りだしているのはおそらくわたしなのであるが、それはまたわたしと主との一種の共同作業であるようにも見える。

 わたしは近づき、彼は退く。あるいは、彼は近づき、わたしは退く。波のように。光る無数の砂を巻きこんで、それは永遠に続いているかに見える。