ここ最近、雑誌を書くことをずっとすっぽかしている。わたしは揺れている。わたしはもはや自分の言葉がどこから来るかを知らない。わたしは欲望であったことがない。理性であったことならばいやというほどあるのだが、欲望であったことはまったくない。周りを見渡せば、欲望を解放することに慣れている人というのが大勢いる。だがわたしはそのような人であったことはない。観察者であり分析者であり、知者であり霊と交感するものであったことならばある、神の目に見つめられるものであったことならばある、だが欲望であったことはない。
その欲望はわたしの言葉の上に宿るか。わたしはそれを解放することができるか。言葉の上に、わが醜く女々しいありったけの欲望を、わたしは載せうるか。それを承知するか。ロゴスはいやだという。全力で抵抗しており、わたしを羞恥のとりこにして、そこへ向かわせまいとしている。しかしわたしには子宮があり、子宮は羞恥などというものは幻なのだという。そんなものはおまえの創り出した幻想であるのだという。わたしは子宮の声が正しいように思い、ロゴスこそ現象に過ぎぬのではないかと思う。子宮は存在だが、ロゴスはその子宮に寄生して生じたものに過ぎぬのではないかと思う。だがしかし、わたしはいかに多く、この子宮の声、子宮の思考、子宮から出るあらゆるものを、軽蔑し嘲笑し、それにロゴスの優位性にまみれた視線を投げかけてやまなかったか。わたしは罰を受けているのである。罰せられているのである。羞恥の炎がわたしを罰するために我が身を焼くのだが、その業火の中になにが見えるか。いましばらくわたしはこの火に焼かれ続けるであろう。そしておそろしく苦しい目に遭い、創造の源がどこにあるかについて混乱し、なにもできなくなるだろう。その先に何があるのか。さらなる混迷か、破壊か、あるいは創造であるか。
わたしは明らかな危機を迎えているが、その危機がわたしを襲うことは、なにか当然のことのように思われる。このような事情で、いままったくものが書けない。いや書いている、あきれるほど書いているのだが、なにもかも異形の怪物のようで、少しも整った形をなしえないのである。この状態はしばらく続くかもしれない。わたしはひとつの非常に危険な山を越えてゆこうとしているのだが、このような山にいま遭遇したことは、幸福であったかどうか。
わが戦いが終わるまで、しばしお待ちいただきたいと思う。