2023/01/18|改装終了のお知らせ

 ご覧の通り、ウェブサイトを大幅に改装しました。
 大きな変化としてはワードプレスの使用をやめたこと、よってウェブサイトを自分で構築したことです。これによって、ウェブサイトのサイズがこれまでの約一ギガバイトから二メガバイトにまで減り、なにやら空恐ろしいような気がします。
 ワードプレスについてはずいぶん世話になったものの、やはりこうした完成されたシステムの中では表現できないもの、どうしても取りこぼしてしまうものが多くあり、また昨今の検索システムの壊滅的な状況、検索結果に似たようなページばかり並んでいることへの嫌悪、広告の氾濫への憎悪、など、主としてインターネットの成熟にともなう様々な側面が、わたしにウェブサイトの創造性を取りもどす義務を感じさせたものです。

 九十年代からインターネットに触れてきて、ブログなどまだ登場してもいない個人サイト全盛期にインターネットとともに青春を過ごしてきた人間としては、昨今の状況は辟易と同時に危機感を感じるものでもある。インターネットの隅から隅まで、いまでは利益を出すために構築されているように見える。なるほど有益なブログも多いし、その情報の対価として広告やアフィリエイトで収益を出したいというのは自然な感情なのかもしれない。なにも資本主義が悪いというのではないし、拝金主義や企業活動が悪いというのでもないが、ほんとうにこの世の中とはなんとかして利益を絞り出さねばやっていけないものなのか、つくづく考えてしまう。

 インターネットは仮想空間だが、その中身を作っているのは個々の人間であって、それもまた人間精神の一種の発露なのだと考えれば、広告だらけ、似たようなものだらけの空間に違和感や危機感を抱かないほうがどうかしているようにも思うのだ。
 でも、とおそらく人は云うに違いない。見てもらうためには右にならうしかないんです。PVを稼ぐためには、収益を上げるためには、読んでもらうためには、見つけてもらうためには、SEO対策をしっかりやり、見やすい、受け入れられやすいデザインを採用し、そのうえで有益なコンテンツを配布するよりほかないんです。
 たぶんそうなのだろう。それは事実だと思うが、そういう事実は個人的に御免被りたいとこのごろつくづく思うようになった。わたしは俗に云う「個性」というものにはほとんど反射的に懐疑の目を向けてしまうのだが、いまわたしが云おうとしているのは奇抜さやむやみな「新しさ」などを駆使して、なんとかあるように見せかけようとする個性のことではなくて、もっと深いところからやってくるもの、否応なしにわれわれのひとりびとりに付与されてしまった、カインの額の印のごとき個性のことである。
 たとえばわたしは中世の装飾写本にどうしようもなく惹かれるのを自分では止められない。中世美術を愛していることを自分ではどうしようもないし、周囲の色という色が全部「アオ」なる一語で表現されうることに感嘆するのも止めようがない。こういうことは、色彩に対して繊細な感覚を持っている人にはほとんど容認しがたいことであろうと思うが、わたしの世界は基本的に白と黒ないしアオのグラデーションである。これはわたしの生まれた時期や生育環境などのすべてをひっくるめた結果からなる必然であって、その必然がおそらくわたしに水墨画を理解させるのに違いないし、いまあなたが目にしているこうしたウェブサイトを作らせるのに違いない。

 わたしが云っているのは、こういうものの表現のことである。それらに誠実であろうとするとき、いったいどうしてワードプレスのテンプレートなどで満足できるかということである。そこに広告を差しはさむことを容認できるかということである。さらには、検索順位を上げること、多くの人に受け入れられようとすること、なるたけシンプルで心地よいデザインにすること、などがなにほどの価値を持つかということである。
 昔はよかったとは云わない。だがインターネットがまだ登場して間もなかったころ、わたしたちの目にするウェブサイトは多く個人が自分の思いのままにデザインし配色し書きつらねたものだった。そこにはびっくりするほどの洗練や個性、美しさと不調和、精神のうめきや軋みが散乱していた。わたしたちはそれを感じとることができた……画面ごしに。そのウェブサイトは一から十まで、その人本人がデザインしコーディングしたものであったから。
 そこにはルールなどなかった。どのようなサイトが見やすいか、どのようにリンクを配置すればクリックしてもらいやすくなるかなど、明文化されていなかったし、それらは皆個人の手に委ねられていた。あのころはウェブサイトを立ち上げることが、収益を上げることとは結びついていなかった。だからそこに自由があった。自由があるとき、人は自己に刻印された個性に忠実になれる。それは多くのことと同じように、半ば呪いであり半ば祝福である。自己であることを呪いながら生きている者は、それを発揮すればよい。自己であることを誇る者は、それを表現するがいい。
 願わくば、そういう自由な空間をこそ、検索結果の上位に表示してもらいたいものだと思う。そのとき人はインターネット黎明期のあの楽しさや興奮や刺激を思い出すだろう。

 だがこれも結局は、たわごとの一種であるかもしれない。人はなぜ額に汗して働き……現代ではおそらく機知と知恵とを絞れるだけ絞って稼ぎ、ということになるだろうが……それで一生を終えねばならないか。それはほんとうか。ほんとうにそうなのか。そこから抜け出す道はないのか。そこから降りることはできないか。満員電車の車両につめこまれた豚のような身分でいることを、やめることはできないか。おそらくできるだろう。あなたの額の印に忠実であれば。だがほかならぬその印が、あなたに満員電車の豚であることを強いているのだとすれば……
 そこまで考えて、わたしは行き止まりに来てしまったと感じる。そしてため息をつき、cssファイルとjsファイルを開いて、そこに書かれているコードと格闘する時間に戻る。午後になれば、わたしはなにか本を読むだろう。そして行間をあてもなくさまよい、突然霊感に打たれてなにかものを書きはじめたりする。そのあいだも終始、頭の隅にはこの疑問がこびりついている……わたしのこのほとんど冒涜的な自由は、いったいどこに根拠があるのだろう、という疑問が。これがわたしの印であるとしたら、やはり父の云うように、イエスとアッラーとシャカが総出でわたしを守っているというよりほかない。実際わたしはこれらの存在と自分がなにか親しい間柄だと感じる。アッラーでさえ……というよりかのムハンマドでさえ、わたしはときどき隣のムハンマドおじさんみたいに感じることがある。

 こういう印のことをどう思えばよいか。これがわたしの印の課題であろう。わたしはその印とそれがわたしに仕向けてくる課題とに、最大限忠実でいる義務を感じる。だからこそ、わたしは洗練されたワードプレスというシステムを降り、インターネット世界の傍流でいる義務を、この世における異邦人でいる義務を感じる。この義務はわたしに変化を強いる。あらゆる意味での変化を強いる。だから、それに合わせてわたしの表現その二であるウェブサイトのほうも、変化してゆかねばならない。固定されたものなどわたしにはない。宇宙の摂理を除いて、なにものもわたしの中で永遠であり得ない。それがわかっただけでも、すでに儲けものだといわねばならない。