怒れる天の父

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 荒廃した荒れ野に、ひとりの女が立っていた。いや、女というより少女だ。身体は成熟へ向かいつつあるが、まだどこか少年のようでもある。顔つきはあどけなく、幼い丸みを帯びているが、そのなかで光る目だけは、早くも憂いと悲しみとを知って、少しく沈んでいるように見える。
 少女は髪をふたつのお下げに編んで結び、左腕になにか抱えている。壊れかけた人形である。母親かおばあさんが手作りしてくれたのだろうか、毛糸の髪やボタンの目をつけた素朴な人形である。人形は青いドレスを着ていたが、裾が大きく裂け、足も半分ちぎれてぶらぶらとぶら下がり、生地のあいだから綿が飛び出している。
 少女もまたひどく汚れていた。あちこち泥だらけだし、片方の靴の底はどうやら剥がれかけているようだし、それにひどくお腹をすかせているようだ。彼女はひとりなのだろうか? まわりには誰もいない。鳴き声でなぐさめてくれる鳥もない。ただひどく荒れ果てて、草木もろくに生えない石ころだらけの大地が広がり、気が滅入るようなどんよりした雲が天を覆っているばかりである。
 少女は深いため息をつき、赤ん坊をあやすように、腕の中の人形を揺さぶった。そのしぐさでなにかを思い出したのだろうか、少女は突然わっと泣きだした。
「どうしてこんなことが起こるの。なぜわたしはひとりぼっちなの」
 だが誰も答えてくれるものはない。少女の声は、むなしく荒れ野に消えてゆくばかりだ。
「いったいなにが起こったの。みんなはどこ? どうして誰も助けてくれないの」
 そのとき、灰色の濁った空から、雲間を縫ってひと筋の光が差してきた。光は少女の顔に当たり、少女はまぶしげに顔をしかめて、いぶかるように天を見上げた。
「ああ、わたしの神さま」
 光の中になにを見たのか、悲痛な顔つきで、少女は天に向かって両手を差しのべ、叫んだ。
「そこにおいでなんでしょう。どうかわたしの話を聞いて。わたしの声を聞いてください。わたし、なにか悪いことをしましたか? あなたに叱られるようなことを? どうしてわたしはこんな目に遭うの? どうしてわたしのお人形は壊れてしまったの。わたし、これを妹にあげようと思っていたのに。わたしはもう大きいし、お人形はいらないから」
「娘よ」
 と天から声が聞こえてきた。神さまは彼女に応えたのだ。
「おまえの声をわたしは確かに聞いた。そこで質問に答えるが、おまえは自分のしたことがまるでわかっていないようだ。おまえは悪い娘であり、わたしはおまえに罰を与えたのである」
「どうしてですか?」
 少女は目を丸くして云った。
「わたしは学校の勉強を頑張っています。家の手伝いもしているし、妹の世話もしています。友だちや、困っている人を助けるのも好きです。誰かをいじめたり、からかったりなんかしません……したくなっても我慢します、悪いことだと知っているから。そりゃあ、もっと小さいときには、知らないでしてしまった悪いこともいっぱいあっただろうし、わがままもたくさん云ったと思うけど、でも、わたしは幼かったんです。それはわたしのせいじゃないし、いまは、なにがいいことで、なにが悪いことかわかっています。わたしはすごく賢くて優等生ってわけじゃないかもしれないけど、とにかくいい人になろうとしています」
「なにがいいことで、なにが悪いことか決めるのはおまえではない、わたしだ」
 神さまは、少し機嫌をそこねたような声で云った。
「人間は、ものごとの善悪を正しく判断することができない。特におまえのような子どもは。わたしはおまえたち人間の保護者であり、おまえたちを創り、おまえたちを導く存在である。人間はすべてわたしの子どもである。たとえどれほど歳をとっても、経験を積んでも、人間は所詮わたしに創られたものであり、永遠にわたしの子である。そのことをわきまえぬ者は罰せられる」
「わたしにはよくわかりません」
 少女は困惑したように云った。
「わたしたちには、いいこと、悪いことの区別がつかないとおっしゃるのですか? わたしはそうじゃないと思います。自分のことを考えてみても、そうは思えません。確かに、小さいとき、わたしはなんにも知りませんでした。でも、家の中に入ってきた大きな蛾を棒で叩いて殺したときのことを覚えてます……床に落ちて、ばたばた翅を震わせながら弱っていく蛾を見たとき、わたしはほっとしましたが、なんだかいやな気持ちもしました。悪いことをしたみたいな。友だちとけんかしたときも、妹に腹が立ってぶったときも、その瞬間はいい気持ちになるけど、でもそれと同じか、それ以上になんだかいやな気持ちにもなるんです。そのあと、たいていお父さんやお母さんに叱られるけど、叱られる前から、自分がよくないことをしたってわかっていた気がします。もちろん、叱られてはじめてわかることもあります。そういうときは、次からしないように気をつけるんです。ついやっちゃうこともあるけど。でも、それでも、わたしは人間がそんなにばかだとは思えないし、自分がそんなに悪い子だとも思えません、罰を受けるような……」
「その考えがもういけない」
 神さまはいらいらしたように云った。
「おまえは聖書を読んだことがないのか。そこに書いてあることを学んだことはないのか。読んでみなさい、そこにはおまえたちが従うべきことと、それを破ったときに受ける罰について書かれている。おまえたちはわたしに従順でなくてはならず、いかなるときもわたしの定めた掟に従い、わたしの云うことに従わなければならない。掟を定めるのはわたし、おまえたちに善悪を示し、従うべきルールを教えるのはわたしである。おまえたちはそれを守ってさえいればよい。そうすれば、わたしはおまえたちを豊かにし、幸せにする。だがわたしの掟に背き、わたしを無視して自分の考えをもったり、自分でなにかを判断して行動しようとすれば、罰せられる。そうするのは親の当然の権利であり、子どもにとってもまた当然のことである」
「でも、わたしもう小さな子どもじゃないんです」
 少女は不満げに唇をつき出した。
「大人になるってことは、自分で決めたり行動したりできるようになるってことじゃないんですか? わたしはこのあいだ、自分で卵を焼いたり、パンケーキを焼いたりしていいと云われました。前は、子どもは火を使うと危ないからって許されていなかったけど、いまはわたしが大きくなって、危なくないことが両親にもわかったんです。自分で使えるお小遣いも増えたし、あまり遠くまで行かなければ、ひとりでバスに乗ってもいいとも云われました。いつまでも両親の許可をもらわなければいけないとか、親と一緒に行動しなきゃならないなんて、変です」
「なんという傲慢な娘だ」
 神さまはかんかんになって云った。
「おまえは親の権威やありがたみというものがまるでわかっていない。親はいつまでも親であり、子はいつまでも子なのだ。子はあくまでも、親の云うことに従い、親の意見を尊重しなければならない。親の云うとおりに行動し、親の考えを自分の考えとしなければならない。
 おお、やはり思っていたとおりだった。おまえは神を畏れぬ不遜な娘、こましゃくれたうぬぼれ屋の娘で、自分はなんでも知っていて、考えたり判断したりできるものと思っているのだ。いまにおまえはわたしを完全に無視するようになり、わたしの掟をあなどって、笑いものにするようになるだろう。わたしがおまえたちにしてやったすべてのことを忘れ、受けた恩を忘れて、自分をひとかどのものと思いこみ、なにをしても自由だ、わたしたちに禁じられたことなどなにもないと云って、大口を開けて笑い、楽しげに通りを闊歩するだろう。なんという堕落、なんという冒涜だ! やはりおまえには厳しい罰を与えなければならない。おまえのような娘を自由にさせるわけにはいかない」
「でも、神さま」
 少女は少し考えこみ、それからどこか憐れむような目で天を見上げて云った。
「わたしのお父さんはよく云っています。おまえはいつか大きくなって、家を出て行く、お父さんにできることは、おまえが自分の人生を生きられるように準備をしてあげることだ、って。わたしはきっといつか家を出て行くし、そうなっても、お父さんをないがしろにしているとか、裏切るとかいうこととは違うと思います」
「おまえには、もうなにを云っても無駄なようだ」
 神さまは冷たく、突き放したように云った。
「おまえは自分の頭のよさを鼻にかけた、生意気な娘だ。ただそれだけのことだ。おまえのような娘は、相当の痛い目を見るか、ひょっとすると死んでしまうまで、その悪い性質が治らないだろう。だがやがて、おまえにもわかる日が来る。やっぱり神さまのおっしゃることは正しかった、あの方に従っていれば、間違いはなかったのだ、と。そして後悔するが、そのときにはもう遅い。おまえがわたしに話しかけてもわたしは無視し、決して応えない。固く家の戸を閉ざし、おまえを決して入れてやらない。おまえはわたしの権威をないがしろにしたから、おまえが過ちを認め、わたしを尊重しなかった罪を認めるまで、わたしは二度とおまえを娘とは認めない」
「まあ、神さま」
 少女は目をまん丸にして、あんぐり口を開けた。
「でも、それはあなたの問題です、わたしのじゃなしに。それにわたし、あなたの娘になった覚えはありません、あなたを神さまと仰ぎはしたけど。だって、神さまを信じることが、そんな意味だなんて思わなかったんだもの。でも、なにかいいやり方はないでしょうか。あなたもわたしも満足する、別のやり方が」