白昼夢

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 通りがかった教会で、パイプオルガンの小さな演奏会をやっていた。コンクリートがむき出しの、どこか寒々しいような建物へ惹かれるようにわたしは入った。十字架もなく、聖像もない。しかしその簡素さが不思議に好ましかった。わたしは自分の教会の、黄金とイコンからなるこれでもかとばかりの装飾を見飽きていたことに気がついた。
 なにかがわたしを倦み疲れさせていた。わたしは疲れ果てて、いまのこのなにもしない生活へ入ったはずであった。仕事も予定もなにも入らない、行くべき場所もなく、するべきこともなく、つきあうべき義務のある友もない、そんな生活をわたしは一年も続けてきた。だがいまやわたしはふたたび別の疲労にとりつかれていた。別の憂鬱さのとりこになりかけていた。
 礼拝堂のなかには、十名ほどの先客がいた。冬の眠たげな日差しがふりかかる週末の午後に、こんなところに入りこみ、じっと音楽のはじまるのを待っているのは、やはりもの好きには違いなかった。礼拝堂のなかも、灰色のコンクリートに覆われ、いっさいの装飾が見られなかった。説教台の横に、ただひとつ、大きな乳白色の花瓶に生けられた花が空間を彩っていた。その色合いの美しさにわたしは打たれた。灰色の壁と木のベンチのなかに、それははっとするほど美しく、ほとんど陶然として立っていた。その花瓶のなかの花は、自分がなにをなすべきであり、なんのためにそこに置かれているのかを、誇らしげに示していた。
「わたしをごらん」
 と花瓶の花々はざわめいてわたしに語りかけた。
「ごらんよ、さあ」
 生けられた花は、見られることのなかに含まれる暴力も支配の欲求も、気にしてはいなかった。ただ人に見られ、人の目を喜ばせるためだけに、そこにあった。
「なにが問題だというの?」
 花々は笑うようにわたしに云った。
「神はわたしたちをこのように装ってくださった。そしておまえたちはわたしたちの美をこのように利用する。これらのいったいどこに、おまえの云う暴力や、支配と被支配の関係や、要するに、まがまがしさがあるというの? それはおまえの心のなかに、あるのではないの?」
 そうかもしれない、花々よ、美しい存在よ。わたしは語りかけた。
 おまえたちがそのようにうっとりと目を閉じて、空間のなかでおのれの美しさを誇っているとき、わたしはその存在のあまりに凛として、毅然としたたたずまいに震えてしまう。花々よ、どうしたらおまえたちのようになれようか。どうしたらおまえたちのように、これが自分であり、これが自分の役割であると、かたときも迷うことなく確信を抱いていられようか。
 花々は笑った。
「そんなことは、わたしたちの知ったことじゃないよ、われわれはそんな感情は知らないよ」

 オルガン奏者が、静かに鍵盤に指を置き、バッハの曲を演奏しはじめた。聴きながら、わたしは無意識に、頭のなかでプロの手になるいくつかのすばらしいオルガン演奏の録音と引き比べていた。
「それがおまえの存在におかしみを添える、まったく愉快な欠点なのだ」
 ふいに横から声がして、わたしは首をひねった。主がわたしの横に座っていた。
「主よ」
 わたしは呼びかけた。主は楽しげな顔つきで、オルガン奏者に目を注いでいた。演奏は、決して賛嘆に値するというものではなかった。だが主は、自分を賛美するために懸命になされている演奏を、心から楽しんでいた。わたしは黙ってしまった。主の見ているものを見ているように、聴いているものを聴いているように、わたしも見、聴きたかった。それはもうずいぶん長いこと、わたしの願いだった。
「おまえはいつでも、どこにでも、最高のものを求めようとする」
 演奏の合間に、主はおっしゃった。
「わたしは確かに、おまえに高みへの強い欲求と欲望とを与えた。美と真理への、絶え間ない希求と渇望とを与えた。そしてこの世はそれらから遠い。このことを、これからもよく心に留めて、折に触れて思い出すがよい。子よ、わたしはおまえからの賛美を受けとるように、ほかのすべての子どもたちからの賛美を受けとる。わたしに向けられたものはすべて、わたしのものだからである」
「主よ、わたしを非難していらっしゃるのですか」
 わたしは自分の度量の狭さ、包容力のなさを思い知らされて悲しくなり、そう云った。
「おまえがそう思うのならば、そうだろう」
「あなたの意図はないのですか。あなたの意志は、あなたの好みは、ないのですか」
 主は笑いだした。
「子よ」
 主は穏やかに笑いながら、わたしのほうへ顔を向け、わたしを見つめた。
「それらはすべて、この世のことだ」

 アメイジング・グレースが流れていた。このメロディは、バッハよりはるかによく耳になじみ、はるかに聴きやすく感じる。演奏者がどんな力量かということも、ほとんど気にならなくなるほどだった。耳が曲に慣れているということは、想像以上の効力があるのでしょうか、とわたしは主に訊ねた。主は微笑んで、相変わらず愉快そうに、愛おしげに、オルガンの奏者を眺め、また礼拝堂に集う人たちを眺めた。その穏やかな姿を見ていると、わたしはこの方への感情があふれそうになった。わたしは主に頭をもたせて、一緒に演奏に聴き入った。
 花は誇らしげに立ち、オルガンの音は身をねじり、響きわたりながら天へ向かい、時間は永遠のようだった。わたしは目を閉じた。だが永遠とはいつのことだろう。主とともにある瞬間が常に永遠であるとしたら。この方を讃えるとき、時はその壁を破って、外側へ出てゆくのだとしたら。
 ああ、わたしもこの方を讃えたい。この方の創ったすべてのものを讃えたい。矛盾に満ちたものを、悪を、凄惨さを、むごたらしさを、弱さを、ずるさを、卑劣さを。わたしはその底に沈み、その底の底から、この方を見あげたい。そのとき、この方はこんな穏やかな午後のなかに横たわっているよりも、はるかにわたしに近いだろう。わたしがわたしの欲望と俗悪さに忠実であるときに見あげるこの方は、わたしがわたしの聖なるものを解き放つときよりも、はるかに、はるかにわたしに近い。

「おまえの賛美はわたしに届く。おまえがどこにいようとも」
 主はおっしゃった。
「すべての子らの賛美は、わたしに届く。どこから、どのように発せられようとも、それがたとえ、考えうるかぎりの冒涜に覆われていたとしても」
 主は子ども相手になにかを云い含めるときのような顔で、笑った。
「なにごとかを為せ。善を為すように悪を為し、悪を為すように善を為して、そうしてなにごとかを為せ。わたしは命じる。おまえのすべての行いのなかに、わたしはおまえの賛美を読みとる」
 演奏が終わった。牧師が立ちあがって、祈りを捧げた。礼拝堂に集う人々のために、世界のために、主の栄光のために。主はそのすべてを受けて、微笑んで立ちさった。

 教会を出ても、わたしは自分が主とともにいるのを感じていた。わたしたちはともに散歩をし、ともに買い物をし、ともに帰宅した。わたしは確かに飽きていた。なにごとも為さないことに飽きていた。自分を押さえつけ、ひた隠し、うずくまるのに飽きていた。わたしはわたしの最高のものを、わたしのなかのもっとも美しいものを、そして同時にもっとも醜いものを、すべてこの世にあらわす必要を感じた。