熱と老司令官

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 身体に異変を感じたのは一月二十日の木曜夜半である。なにやら喉がいがらっぽく、痛いような気がしてきた。瞬時に、コロナの感染を疑った。いよいよ来るべきものが来たかもしれぬと思った。
  わたしはそこまで信心深い人間ではないから、自分には神の守りがあるから流行り病になどかからない、と豪語する自信はない。コロナウィルスが流行しはじめた当初、このようなことを云って純朴な信者たちを安心させようとした聖職者が、ことに東方正教会圏においてはおびただしい数にのぼったものである。キリストが天に出現したとか、マリアが現れて、指先にオリーブオイルをつけて玄関のドアに十字を書けば大丈夫だというお告げがあったとか、なにやら終末感のただよう話も多く聞いた。とりわけ痛ましかったのは、コロナに感染したことに深い罪の意識を抱いて、焼身自殺してしまったロシアの若い修道士の一件であった。これらのことについては、いずれ改めて書く必要が出てくる気がするが、あぶなげない信仰と、あぶなっかしい信仰を隔てる線は実に細く、ほとんど見えないほどだが確実に存在している。
 話がずれたが、病に関しては、わたしには下手に宗教などもちだすよりも、中国の思想に見える「死生命あり」の考えのほうがよっぽど自然に心に響く気がする。人の生死は天命によるもので、人力ではどうすることもできないものだと説くこの教えに従って、『雨月物語』に出てくるある男は、周囲の制止を振りきって、悪性の流行り病に苦しむひとりの侍を看病しに行くのだ。そして病の床で弱気なことを云うお侍に、「凡そ疫は日数あり。其のほどを過ぎぬれば寿命をあやまたず」と云って元気づけるのである。
 これはたいした真理である。わたしはこの年末に、たまたま雨月物語を読み返していたのだが、療養中何度もこれらの言葉が頭をよぎった。そのたびに、人がこのような智を得るにいたった背景に、いくたびの大規模な疫病の流行があったろうかと思ったものである。そしてなにやら胸中に心強いものをおぼえた。度重なる災禍に見舞われつつも、結局人は生き延びてきた。わたしひとりは、もしかするとここで倒れるかもしれぬ。だがわたしの死は、たとえ死者数の一部としてであっても、後世に残り、人類の叡知になにがしか寄与するところもあるに違いない。そうすると、わたしの罹患には、人類の知見に対する一種の貢献が認められるということになる。そう思えば、そこになにがしかの意味が認められ、大いなるものの介入が認められる。天はわたしをして、わたしを超えた意義の中へわたしを放りこむ。天命を信ずることは、このわたしを超えたものの意志が持つ、わたしに計りしれない摂理の正しさを信ずることだ。それを信じるとき、人ははじめて、おのれの運命を心安らかに信じることができる。

 病気は不思議な現象である。それは身体の脆弱さと同時に強靭さをも思い知らせる。身体は、どうも一面ではおそろしいほど無防備なようで、ちゃんと防衛してもいる。無防備の自覚があるからこそ、強力な防衛体制を築き上げてきたというべきか。そこには数多の危機をくぐりぬけ、磨きぬかれてきた身体知の歴史があるが、それがどれほどすぐれたものであり、心強いものであるかを、わたしは思い知ったのである。
 明けて二十一日、金曜日の朝目が覚めたときには、なにがしかのウィルスに罹患したということは決定的な事実となっていた。喉が痛む。そして身体の節々が猛烈に痛む。この痛みはおそらく昨日のヨガで身体をよく伸ばしたりねじったりしたためだけではあるまい。熱はなかったが、きっと上がるという予感があった。身体がすでに体内の敵に対して身構え、臨戦態勢に入っているのを感じたのである。
 徒歩三分もかからない近所の病院が、たまたま区の中心的なコロナ対応医療機関になっていた。そこへ電話をかけ、午前中の受付はもう終わっていたので、午後から発熱外来にかかることにした。午後の受付は十三時からだという。
 発熱外来は、病院の別棟のようなところに、いかにも人目をはばかるように設けられていた。十三時の段階で、すでに数人の人が待っていて、わたしが待っているあいだも途切れることなく人が来る。昨日は四時間待ちだったんですよ、と、年配の看護師がなにか誇らしげな感じさえにじませて云っていた。
 渡された問診票に記入し、熱を測ったら三十七度六分に上がっていた。PCR検査を受けますか、と看護師に訊かれたので、それはわたしが決めることなのかと訊くと、最終的には先生の判断ですと云うから、そんならわたしに訊いても仕方ないのではないかと云うと、皆さんにお訊きしていますという。まじめに受け答えすると、なにやら果てしのない議論がはじまりそうだったので、わたしはもうPCRでもBCGでもツベルクリンでもなんでもやってくれと思い、そう云った。いつも思うが、どうもこの医療というシステムもまた、頭がいいのか悪いのか、こちらの頭を抱えさせるようなところがある。
 小一時間ほど待っているあいだに、いろいろな人が来た。ある年配の男性は、妻が陽性になって、検査キットで自分も陽性だったから来たということを、もうたっぷり二十分は待合で待ってから告白した……それまで誰も訊かなかったのだから当然であるが、話を聞いた看護師は表情を険しくし、その男性をどこかへ連れて行った。数日前までこの病院に入院していて、入院中から喉が痛かったという男性も来た。結局その人は、自分は入院中の検査でも陰性だったということを強調し、こんなに忙しいのならまた別の日に来るといって帰っていったが、こんな光景をずっと見ていると、どうもなにかが機能していないように思われてならなかった。実際、機能していないのだろう。水も漏らさぬ感染対策システムを作り上げたところで、しょせん運用するのも利用するのも人間なのである。
 ようやく診察室に呼ばれた。医者の先生が、部屋の中央にどんと置かれた巨大な透明パネルの向こうにいて、われわれの距離は、こちらから声を届けるのもやっとなくらい離れていた。そしてやはり、医者は患者でなく目の前の端末に向き合っていて、しきりにキーボードを打っているのだった。
 診察はものの一分で終わり、解熱鎮痛剤と喉の薬を処方されたのち、PCR検査を受けるために向かいの部屋の前で待っているように云われた。部屋の前のベンチに座ると、突如女性の悲鳴のようなすさまじい泣き声が聞こえてきて、わたしは思わず腰を浮かせてしまった。あたりを見まわしたが、ほかに人が泣き叫んでいそうな部屋はなく、どう考えてもわたしがこれから入らねばならぬ目の前の部屋から聞こえてくるのである。患者は小さな子どもだろうか、だがどう考えてもこの声は大人の女の声だ、などと思っていたら、東南アジアの出身と思われる女性が、涙を拭きながら出てきた。彼女はわたしの横に精根尽き果てたというように力なく座り、まだ涙を流していた。背筋に戦慄が走ったが、このとき無慈悲にもわたしは名前を呼ばれてしまった。
 おそるおそる部屋へ入ってゆくと、眼鏡をかけた女性が防護服を着なおしているところだった。忙しいのか疲れているのか腹を立てているのか、たぶんそのすべてだろうが、子どもが見たら逃げ出すような形相をしている。あとで知ったが、PCR検査をするというのはたいへんな重労働であるらしい。防護服を着るのがそもそもひと仕事で、手袋やマスクや一連の装備を身につけたうえに、検査の道具などもたいへんやかましく厳格な管理を必要とするらしい。
 検査はたしかに痛かった。鼻の奥へ長い綿棒を、不安になるほど奥までぐいぐい差しこんでゆくのであるが、わたしはつい、鼻の穴の中へ長い棒を突き入れ、相手の脳を突いて殺してしまうという小説だったかなんだったかの一場面を思い出してしまい、ふたたび全身に戦慄が走った。やたらに小説など読むものでない。
 看護師の話では、検査が立てこんでいるので、結果が出るのは週明けになるという。これもまたなにやらうまく機能していないものを感じながら、会計をし、薬を受けとって家に帰ったが、それから就寝まで、横になることもせずにだらだらと過ごしていた。熱は上がっているのだが、妙に元気なのである。食欲もあるし、寝たいという気が起きない。オミクロン株は軽症だと云っているが案外そうかもしれないな、などと思いながら、しっかり風呂にも入って寝たが、しかしそのあとが大変だった。

 猛烈な寒気で目が覚めた。全身をがたがたさせながら、ああこれは熱が上がるところだ、いよいよ勝負だ、という気になってきた。解熱剤は飲んでいたが、どうもわが防衛軍はそんなものは無視することに決めたようである。この時点で、わたしは自分がなにやら未知のウィルスに罹患したということに確信をもった。
 だいたいわたしの身体は、日ごろ薬など飲まないせいか、薬品に対してまことに教科書どおりの反応を示すようにできている。解熱剤を飲めば熱は下がり、痛み止めを飲めば痛みは去り、風邪薬を飲めば風邪はおさまるというように、実に他愛なくできている。それが、解熱鎮痛剤を飲んだにもかかわらず喉は痛み、熱は上がろうとしている。こんな常識外れの反応を示すのは、相手がインフルエンザか、身体にとって未知のウィルスかである証拠だ。
 寒気はじきに去り、今度は我慢できないほど熱くなってきた。少しうとうとしたと思うが、なにか灼熱の中で悲鳴を上げるような夢を見て、目を覚ました。頭が燃えるように熱く、身体も熱い。平清盛はその専横悪業の報いか、最期は身体にかけた水が沸騰するほどの熱が出て、熱さにのたうち回って死んだということであるが、そんなことを思い出さずにいられないほど、どうにも熱い。
 これはだめだと思って、保冷剤をとりに行こうと思うが、その「とりに行く」がどうしてなかなか実行できないのである。なんだかつい妙なほうへ考えがそれてゆき、枕の形は四角いがこれはなんという対比なのだろうかとか、頓珍漢なことばかり考える。しばらくして、これは朦朧としているのだということに気がつき、それでなくても脈絡なくさまよいがちなわが心であるのに、どうにも頼りないことだなどと思ったりしたが、これはもう起きるという行動に実際に及ぶよりほかに手があるまいと思って、やおら起き上がった。ふらつきもしないし、めまいもしないが、とにかく熱い。
 保冷剤をとってきてタオルにくるみ、また横になった。保冷シートがあったのを思いだして額に貼り、冷たい保冷剤の上に頭を乗せると、あまりの心地よさに楽園へ来たようである。子どものころ、氷の館というのに連れて行かれた。分厚いドアを開けると、赤や黄色や青の明かりに照らされた部屋の中は、どこもかしこも氷でできている。壁面も鏡のように磨かれた氷である。氷の中をそろそろと移動するわたしと弟と両親の姿が、ゆらめきながらどこかおぼつかなげにあちこちの壁に映りこみ、伸びたり縮んだりしながら、ゆらゆらと通り過ぎる。
 あれは暑い夏であった。氷の館の冷たさは、わたしにわたしの季節である冬を思い出させ、わたしが春から秋にかけて常に感じていなければならない、自分が実に場違いなところにいるという感じを、少し和らげてくれたのである。生命の横溢する季節に、わたしはいまもって、自分をどうしていいかわからないでいる。熱はエネルギーであり、運動であり、生命だ。でも冬の雪の運動は、エネルギーでも生命でもなく、死が舞い踊っているのだ。灰色がかった、生命とはまた別の美しさをもった白。それは死の世界から吹いてくるのだが、生の世界で踊らざるを得ないところに、雪の深い悲しみがある。そして春になれば、太陽にやられて、あっけなくみんな溶けてしまう。わたしは太陽を憎む。わたしの雪の世界を、わたしの魂の世界を破壊しにかかる太陽を憎む。
 朦朧としながら、わたしはいま、ひとつの熱の塊であった。もしかしたら、自分はいまミツバチではないかとふと思った。日本のミツバチは、巣に侵入してくる、自分の何倍も大きなスズメバチにいっせいに飛びかかり、とりかこみ、筋肉をふるわせて高熱を発生させ、その熱でスズメバチを殺してしまうのだ。
 日本のミツバチは、小さくて黒っぽく、あまり人をおどかさない、優しいやつである。春先に、この丸っこくて愛らしい花の友だちが、友のもとへのんびり蜜を集めに来るところを見ているがいい。連中は実におっとりと飛んでくる。そして透明な羽根をふるわせて、花から花へご機嫌をうかがように飛びまわり、長いこと花の上でじっとしたり、くるくる向きを変えてみたりする。そうして気がすむまで花のあいだでたわむれたあと、またそっと飛んでゆくのだ。
 日本のミツバチは、まことに日本の春そのもののように、気だての優しい、おとなしい虫であり、めったなことでは怒ったりしない。こいつに刺されるなら、それはこっちがおどかしたり邪魔をしたりするからで、刺されたほうが悪いのだ。こんな小さな優しい虫が、外敵には集団で立ち向かい、四十六度とか七度とかの灼熱地獄をつくり出すという戦法をとるところなども、なんだか妙に日本的なように思われる。小さな身体で精一杯に熱を出す、そしてそれがあの殺人的なおっかないオオスズメバチをも殺してしまうという、わたしはこの話が妙に好きなのである。世の中には、もっと巧妙な作戦をとる生き物もたくさんいる。熱を上げるというのは、外敵と戦う方法としては非常に原始的である。だがその原始性が、結局もっとも効率がよく、あまりいろいろな器官を発達させたり、肌の色を変えたりといった大仰な工夫をしないでもすむという意味でも、大変能率的なことのように思われるのだ。熱は原始的なエネルギーだが、それはやはりエネルギーのすべてであって、よって戦いの、生命のもつすべてでもある。
 わが身体はいま小さなミツバチのように、熱をふるって戦っていた。身体の中で爆発的に増殖し、陣地を奪わんとするウィルスに対して、生命のエネルギーをまるごとぶっつけるというたいへん原始的な方法で、身を守ろうとしていた。この攻撃のために、わが身体は日ごろの薬物への従順を捨て去り、体温維持の慎みを忘れ去って、灼熱と化して戦っていた。平素はなにも云わず、持ち主の云いなりになって食物を消化しているような身体であるが、それがいざというときになって示してみせるこの意志の強さ、防衛システムの強靭さ、狂いのなさに、わたしは泣けてくるようだった。それは幾多の疫病を、災厄を、間違いなくくぐりぬけてきた身体であった。そうして鍛えあげられてきた身体であった。
「この程度のことでは、まあ負けますまい」
 と我が軍の年老いた司令官は云った。
「この敵とは、確かに初めて戦いまする。が、これはかつて戦ったものと似ておりまする。わが軍の記録庫に、ちゃんと記録が残っておりまする」
 冗談抜きに、身体はこうした戦いのすべてを記憶しているという。人が風邪程度では死なず、ワクチンが有効に機能するのはそのためである。天然痘、はしか、ペスト、コレラ、スペイン風邪、そのほかすべての流行り病に罹患した記憶を、この身体はもっているのかもしれない。今回そこに新たに新型コロナウィルスが加わり、たぶん今後もいろいろなものが加わるのだが、このたびのことで、わたしはわが身体に対し無限の信頼を寄せるようになった。感染しても無症状だとか、ちょっと咳が出たくらいでおさまったなどという適当なことを、わが身体がしなかったためである。
 はじめてのものははじめてのものであるという、厳粛な事実にのっとり、きちんと熱を上げて対抗するという、昔ながらの手法を遵守したわが身体は、おそらく奇抜な作戦もウルトラ技も編み出さないが、これからも毎度愚直に、手抜きすることなく手順を踏んで病に挑むのであろう。こいつが「負けました」というのならばそれはその時点での人類の限界である。人類の身体の歴史の限界である。それを越えて生き延びることはいま医療の課題であるが、この身体への信頼なくして、何万年の時を生き抜いてきたこのシステムへの信頼なくして、やたらに医療を信頼したとしても、それはやはりむなしかろう。そのようにして確保した生は、やはりどこかむなしいだろう。
 わたしはいつもばかのひとつ覚えのように、熱を上げられる身体でありたいと思う。ミツバチのように、彼らが本能のままに無心に外敵に飛びかかるときのように。そのとき人はきっと、スズメバチに立ち向かうミツバチと同じ美しさを、発揮しているはずである。

 なにかこのようなことを考えながらうなされつつ朦朧として、ふと目が覚め、時計を見たらまだ午前一時だった。ずいぶん長い戦いを経たように思ったが、ものの二時間ほどの出来事だったらしい。
 このときになってはじめて、熱を測るということを思い立ち、体温計を脇にはさんだら、三十九度ぴったりだった。四十度にもなっているだろうと思っていたら、わが軍は、なんとまだ余力を残して戦っているのであった。

 それから翌朝まではなぜかぐっすり眠った。起きて熱を測ると、まだ三十八度台であったが、もう峠は越えた感があった。夕方には、微熱という程度の熱にまで下がり、夜になってから、わが軍の老司令官が、
「敵をだいぶ打ちのめしましたゆえ、主力部隊は前線より撤退いたしまする」
 と報告してきた。よくやってくれたとわたしは云い、熱は下がった。
 その翌日の夕方、日曜日であったが、病院から連絡が来た。
「PCR検査で陽性でしたので、保健所に病気の発生届というものを出させていただきます」
 と当直の男性が云った。わたしはあらかた戦いを終えた感のある身体で、わかりましたと答えた。

 以上が、闘病のほとんどすべてである。このあと、月曜日に保健所から連絡があり、体調の確認や濃厚接触者の調査などを受けたが、わたしは半分隠者のような生活をしているから、濃厚接触者などいそうもないのである。どこからかかったものやら、それもわからないのであるが、ここまで来れば病も天命である。かかろうと思ってかかれるものでなく、かかるまいとして免れるわけでもない。人の前には、すべてがそのようなものだ。得ようとして得られず、捨てようとして捨てがたい。そのようにおぼつかないものの中で、わが身体の免疫反応は、今回なにか非常に確かな、手応えのある働きをみせた。そして真に信頼できる使用人のように、仕事が終われば自分の部屋に引っこんで、主人になにを要求しようとも思わない。
 この無限の献身に、わたしがなにか報いたいと思ったとしよう。そして身体に十分な栄養を与え、せめて心地よく働けるようにしてやりたいと思ったとする。でも、人がなにを食べるべきかについては、今日あまりにも錯綜した情報があふれている。わたしは相変わらず体重の増減に戸惑い、自分がなにを食べたらいいのかについて不安を抱え右往左往したままである。ところがこの件について、わが軍の老司令官は、太古からの深みを秘めた目を数度またたかせ、こう述べただけであった。
「もちろん、理想というものはありまする。武器が潤沢に供給され、兵力が無限で、防衛設備が最新であれば、われわれはどこまでも戦えまする。が、理想はやはり理想でありまする。武力にも兵力にも限りがあり、防衛設備はこの数千年ほどあまり変わっておりませぬ。われわれはそういうものだと思っており、そういう中で戦っておりまする。そういうものではござりますまいか」
 わたしはこの老司令官に、心からの敬意を表するものである。