トビとカラス

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 トビはこのあたりの鳥の王さまである。
 もちろん、さまざまな鳥のいる田舎のこと、トビなどよりずいぶん大きな鳥もある。たとえばあのくすんだ灰青色をしたアオサギはそのひとつであるけれども、どうも姿がみすぼらしい。変に脚が長く、羽はなんだか色艶がなく毛羽立っているような印象で、鳴き声もギャアギャアと潰れたようで品がなく、水辺で餌をあさっている姿など、どうもみじめに沼地に追いやられ、尾羽打ち枯らした斜陽の一族のような感がある。
 トビよりずっと機敏に飛びまわる鳥も多い。たとえばツバメの仲間のヒメアマツバメは、黒い三日月型の翼を稲妻のようにひらめかせ、目にも止まらぬ速さで飛びながら、あたりになんの障害物もないのに、だしぬけに方向転換したり、くるりと旋回したりしながら戦闘機かなにかのように飛びまわる。曲がりくねった木々のあいだの隘路をたくみにくぐり抜けるさまなど、まったくレーシングカーも顔負けのたいへんな性能である。ところが、これはその敏捷さと引きかえに、体があまりにも小さい。
 ウグイスやヒバリ、シジュウカラにツグミなど名だたる歌の名手たちもいる。それは朝に夕に、こちらの心をとろかすような声で鳴いてくれ、この世がよろこびに満ちた楽園であることを教えてくれる。が、彼らは往々ひどく臆病者で、落ちつきに欠け、ちょっとした物音にもすぐに動揺して歌うのをやめ、ぱっと飛び去ってしまう。
 ではトビはどうか。トビは云うまでもなくかのタカの仲間であり、どっしりと落ちついた体をして、眼光するどく、くちばしは磨きぬかれた鉤爪のようであり、脚は太く立派で、大きなおっかない爪がついている。翼は雄大で、形の美しい羽が整然とうち並び、あまりせわしなく羽ばたかないでもうまく風をとらえて長い時間飛行できるようになっている。
 トビは飛ぶのではなく舞う。空中を優雅に、大きく円を描きながら、翼を一切動かすことなくどこまでも風と一体となって旋回する。そしてピーヒョロロと笛のような声で鳴くが、トビはそうやってひとり神に捧げるための舞楽を舞っているのである。
 このような鳥はトビのほかにない。トビはまことに堂々とした、空の王である。

 この空の王さまは、ひとつの山をねぐらにしておられた。それは人里からあまり遠くなく、しかし近すぎもせず、人間の活動の恩恵を受けつつも人間の不用意に踏みこんでくることの少ない山であり、トビの王さまはこの山のてっぺんの木に巣をかけて、安心して子どもを育て、妻と語らい、日が落ちれば眠りにつくのである。
 この王さま一家に、いつもへらへらと媚びへつらいながらつきまとっている一羽のカラスがあった。そのカラスはたいそう口が達者で知恵者であるという話だったが、どうも人好き、というか鳥好きのしない性格で、群れの仲間に嫌われ、近隣のカラスたちにも嫌われて、行き場を失ったカラスであった。
 いくら知恵者といっても、カラスは一羽で生きてゆくようには生まれついていない鳥である。仲間が誰もいないとなっては、先行きがどうも不安である。そこでこのカラスは知恵をめぐらし、そうだ、ひとつあのトビの王さまのご機嫌とりでもして、なんとかそばに置いてもらえないかやってみよう。王さまのそば近くにお仕えしているとなれば、もう誰もおれに手出しができないだろうし、おれがちょいとにらみを利かせれば、王さま怖さにみんな云うことをきくに決まっている。そうだそうだ、こいつはうまいことを考えたぞ……。
 というようなことでもって、ある日このカラスは王さまのもとへ挨拶にやってきた。
 王さまは、こんなはぐれ者のカラスのことなど別にどうでもよかった。だがカアカア鳴くのを黙って聞き流しておれば、別に害もないのだし、意外に子どもの扱いに長けていたり、気の利いたことを云ってお妃さまの機嫌をなだめたりして役に立つこともあったから、あまりうるさくわめき立てない限りは放っておくことにしたのである。
 カラスは実際、けっこう役に立った。トビの王さまは今年、お妃さまとのあいだに新しく二羽の子どもをもうけて、子育ての真っ最中であった。子どもというものは、どんな種族においてもまったく目離しならない、絶え間ない目くばりの必要な存在であって、たとえ王さまトビの子どもであろうとそれはおんなじことである。王さまは狩りがお好きで、それはまた立場上なにかと苦労の多い王さまの唯一の気晴らしであったが、最近では子どもたちの食欲も増してきて、その餌を確保するだけで手一杯であり、とてもひとり優雅に狩りを楽しむなどという余裕はなかった。お妃さまも、子どもの世話と監視とに追いまくられてこのところすっかりくたびれている様子で、普段は美しい羽もつやを失ってそそけ立っているようであり、口を開けば不満や愚痴が飛び出して王さまをうんざりさせた。
 それがこのカラスが来てからというもの、
「さあさあ、王さまもお妃さまもおくたびれでございましょう。子どもといいますものは、あたくしも多少知っておりますが、まあとかく手のかかるもの世話の焼けるもの、こんなものに四六時中かかりきりになっていては、王さまだろうと乞食だろうとしまいに頭がどうかなっちまうというもんでございますよ。今日という日一日は、もうあたくしがこの愛らしいおチビちゃんたちのことは万事引き受けますから、どうか存分に羽休めをなさってください。これであたくしは、群れにいた時分にはなかなかどうして子どもの扱いがうまいというので、子ガラスどもの教育係なんぞというものを引き受けていたこともあるんでございますから、どうぞご安心なすって、もうたっぷりと一日、子どもの子の字も思い出すことなしに、思うままにお過ごしになっていただいて結構なんでございます。ええ、もうあたくしに任せてくださいましたならば、万事うまくやってみせますから。さあさあ」
 などと云って子どもの世話は引き受ける、また誰が命令するでもなく、縄張りの見張りを引き受けて巣のまわりを飛びまわっては、うっかり近くを通りかかった無辜の山鳩夫婦などに向かって、
「おうおう、あんたらこのへんを自分勝手に通行していいお空とでも思っていなさるのかい。だとしたらよく覚えておくんだね、このあたり一帯は、みんなあのわれら鳥の王さま、トビの王さまの縄張りなんだ、次にその間抜け面下げてのこのこ来やがったら承知しないよ」
 などとやたらに威勢よくわめきたて、おとなしい山鳩夫婦をすっかり面食らわせたりするのであった。
 はじめのころは、王さまもお妃さまも、このカラスに疑いの目を向けて、そう簡単に育児を任せるとか、あたりの見張りを頼むなどということは承知しなかった。が、なんといってもそうしたことはなかなか厄介な仕事であるし、王さまはときどきは子どもの餌のことなど考えないで、のんびりと好きなだけ狩りを楽しみたいと常々思っていた。またお妃さまのほうでも、もう少し羽のお手入れに時間をかけたり、ひとりで行水をつかったりしてのんびりしたい、ときどきは山のほかの鳥たちのところへ出向いて、奥さまたちとおしゃべりも楽しみたい、などと心ひそかに思っておられた。
 カラスのほうはなにしろこの一家に必要とされることにおのれの生存がかかっているのであるから、王さまとお妃さまのそうした思いをうまく手玉にとって転がして、口八丁手八丁でもって誘導した結果、いつしかそうした仕事は多くカラスが引き受けることになり、王さまは毎日悠々と空を飛んで、下々の者を睥睨しつつ趣味の狩りをお楽しみになり、お妃さまは朝からのんびり美容に時間をかけることができるようになって、心の余裕も生まれ、奥さまたちとの会話に花も咲いて、いつしか娘時代へ返り咲いたかのように、たいそう美しくおなりになった。もともとおきれいな方ではあったが、鳥の奥さまたちがまた上手にほめそやすので、近ごろお妃さまはすっかり昔のような美貌と自信とをとりもどし、いやしいカラスふぜいではあるけれども、ああした召使いが一羽いるというのも悪くないなどと思うようになっていた。

 さてある日、お妃さまは子どもたちがもうだいぶ大きくなって、翼も立派になってきたのを見て、そろそろ巣立ちのことを考えて、一番難しい飛行訓練を施してやるべきだと思い立った。
 王さまは朝早くから周囲の偵察と趣味の狩りとをかねた散策に出かけていたが、もともと子どもに飛び方を教えるのは母親の役目であったから、お妃さまは子どもたちを従え、カラスを従えて、飛行訓練場になっている山奥の沢へと向かった。
 その沢はちょうどこのあたりの谷底に当たり、周囲を崖に囲まれていた。といって、まったくとりつく島のない断崖絶壁というわけではなく、子どもたちがちょっととまって休んだり、万が一のときに爪を引っかけたりできる木もそこここに生えていたので、訓練にはうってつけの場であった。
 あたりの緑を映して、沢の澄んだ水は淡い青色に染まり、風のそよぐのに合わせてその青色を優しくゆらめかせていた。空気は潤いに満ち、涼やかで心地よく、どこかでコゲラが木を叩く音が響いていた。
 お妃さまは毎年毎年、この沢で子どもたちに飛び方を教え、下降、上昇、気流に乗るこつや空中で体勢を立てなおす方法などを仕込んで、一人前のトビにしてやった。この場所ではじめて自分の子どもに訓練をほどこしたのは、もうはるか昔のことである。お妃さまは、自分の教えたとおりに翼を広げておっかなびっくり木の上から飛び出し、気流をつかまえようともがいている子どもたちを見ながら、その遠い昔のことを思い出して、ふとこんなことを思った。
 あたしもずいぶん歳をとったものだ……それにあの人だって。いまはまだあの人があたりににらみを利かせて、あたしもなに不自由なく暮らしていられるからいいけれど、いつ何時もっと若くて強いオスが現れて、あたしやあの人をこの山から追い払うかわかったものじゃない。あたしたちだって、昔はそうやって自分たちの居場所をこしらえたのだもの、きっといつか同じことをされるに決まっている。それが摂理というものだけど……そんなことはもっとずっと先のことだと思うけれど。
 お妃さまは、かつて自分たちがこの山から追い払った、老いさらばえたオスのトビのことを思い出していた。連れ合いはもう亡くしたらしくて、毎朝ひとり巣を飛び立って、ゆっくりとあたりを回り、やがて巣に帰ってきて、ひとり眠りにつく。その年老いたトビは、毎日それを淡々とくり返しているようだった。この老いぼれトビを見て、怖いもの知らずで、猛る力をもてあますようだった当時の王さまは、あざけるように笑ってこう云った。
「あんな老いぼれがこんな立派で豊かな山をひとつ抱えているとはおかしいじゃないか。あんな年寄りは、もうどっか林や森のすみっこで隠居しているべきなんだ。そうして、未来あるおれたち若者に場所を譲るべきなんだ。それが自然の摂理ってものだ。なんのかんのと云ったって、この世界には結局それしかない。力のある者が欲しいものを手に入れ、力のない者は力のある者に従う。それは正しいことさ。母なる自然がそうするように教えているんだからな。どれ、おれがひとつ、あいつにこの摂理ってものを教えてやろう」
 そうして王さまはこの老いたトビに挑みかかり、さんざんに追いまわしてつついたり、踏みつけたりし、山から追い払ってしまった。老いたトビはあまり抵抗せず、ただ逃げまどうばかりだった。王さまのすばやい攻撃をかわすにはあまりに歳をとりすぎていたし、そのことを本人が一番よくわかっているというように、老いたトビはよけいな刃向かいを一切することなしに、王さまの気のすむまでひたすら耐え忍んでいた。若い王さまは、あんまり手応えがないので興をそがれたらしく、ほどなく攻撃の手をゆるめて、逃げてゆく老トビを見ながらふんと鼻を鳴らし、なにやら悪態をついた。
 あのときはこんなこと思わなかったけど、とお妃さまは考えた。夫は若い生意気盛りで、年寄りトビのことを負け犬のように云っていたけれど、ほんとうはあの年寄りは、あんな日の来ることをとっくの昔に覚悟していて、山から追われるのを待っていたのじゃないかしら。もしかしたら、自然の摂理に負かされたのはあたしたちのほうじゃなかったかしら。夫の云う摂理というやつは、誰をも打ち負かすものなんじゃないかしら、日の昇るような勢いの者も、日の暮れてゆく暗さわびしさの中にたたずむ者も、みんな。
 そこまで考えて、お妃さまはぶるぶると首を振った。あたしはなんだってこんなくだらないことを考えているんだろう。あたしは母親だ、現役の母鳥だ、まだ卵を産むことができ、子育てをすることができる。たとえあたしがはじめて母親になったのがはるか昔のことだったとしても、それがなんだろう。あたしはまだ老いぼれじゃない、来年だってきっと、新しく卵を産むんだもの。
 風向きが変わり、風が強くなってきた。お妃さまは、子どもたちを見張るためにとまっていたひときわ高い木の枝から身を乗り出し、谷底のあたりで必死に羽ばたいて昇ってこようとしている子どもたちを見下ろした。この谷底の気流は複雑で、とらえにくい。ちょっとした風の変化で、急に激しい気流にとらわれて崖にたたきつけられそうなったり、思いもよらない遠くまで飛ばされそうになったりする。だからこそ、この訓練が重要なのだ。この難しい気流を征服することができれば、どんな強風に遭っても複雑な気象に出くわしても大丈夫だ。この訓練さえやりぬけば、子どもたちの巣立ちはもう決まったようなものだ。
 だがこの谷底の気流は、子どもたちにはまだあまりに難儀なものであるらしかった。見るに見かねて、お妃さまはさっと翼を広げて舞い上がり、風の流れを確かめるように大きくぐるりと旋回してから、子どもたちのもとへ降りていった。子どもたちはしじゅう向きや強さを変えて流れる気流に翻弄され、ばたばたとみっともなくもがいていた。お妃さまは自分の翼を広げて風を防いでやりながら、子どもたちを崖の上の木のところまで導いてやった。子どもたちは、ようやく奔放な風から逃れて枝に脚を置くことができ、青息吐息といった様子だった。
 この間、例のカラスは訓練の様子を少し離れたところから見守っていたが、訓練が中断したと見るや調子よくやってきて、どうもお疲れ様でございました、今日は風向きがいやにころころ変わりますことで、などと云って子どもたちをなぐさめにかかった。子どもたちのほうでも、疲れたとかあんなのできっこないとか云って、さっそくカラスに甘えだした。いつの間にか二羽の子どもたちは、なにかと厳しい父母よりも、このおべっか使いのカラスのほうになついてしまっているのを、お妃さまは感じた。自分がこれまでひとりきりでしつけのほとんどをこなしていたのを、お妃さまはなにか非常に遠いことのように、なんだか夢のように思った。
 そのときふと、こちらをじっと見つめる視線を感じて、お妃さまは顔を上げた。全身にさっと緊張が走り、子どもたちは母親の気配の変化に気がついて、我先にとお妃さまの翼の下に潜りこんできた。
「あっ、あそこにいますよ」
 カラスが対岸の木を指さした。豊かに茂った枝葉の陰に隠れるようにして、一羽のトビがじっとこちらを見つめている。
「お知り合いでございますか? どこのどいつでございましょう、お子さま方の大事な訓練の最中に、のんびり見物を決めこむなんざあ」
 カラスはもう鼻息を荒くして、息まいてガアガアわめきたてた。
「お黙りよ」
 お妃さまはカラスをたしなめながら、木陰からこちらを見つめるトビに目をやった。まだ若いオスだ。非常に若い、おそらく昨年あたり巣立ったばかりのオスである。だが体はずいぶん大きく、力も強そうだった。目つきは鋭く、飢え疲れた生き物が見せる、ほとんどやぶれかぶれの凶暴さに似たものを帯びている。はじめての冬を越し、生存の厳しさにもまれて、この若いオスは、子どもっぽい甘さをすっかり取りさってしまったと見える。
 だがこのオスの視線には、自然の厳しさの与える鋭さとはまた別の、ある激しい欲求が生む鋭さがあった。この若いオスは、ちょうど自分の伴侶となるメスを探している時期に当たり、いまはなによりもそれを熱烈に求めているに違いなかった。若いがゆえの不器用さとおそれ知らずの猛進とをないまぜにして、この年ごろのオスはひたすらメスを求めるのであるが、お妃さまはそのオスの視線の中に、真剣にメスを見るオスのもつ、あの特有の熱っぽさを感じとった。
 お妃さまの体は、ほとんど反射的に少し震えた。かつてあの王さまも、このような目でお妃さまを見たのである。そのころの王さまは、抜きん出て体が大きく、血気盛んで、これはと思うメスのためならばどんなことでもやってのけるというような気概にあふれていた。あの無鉄砲な真摯さ、愚かしいほどのまっすぐさ、それに心を打たれ、自分の娘時代はこのオスのために終わるだろうと本能的に感じとった、あの夏の盛りの日。
 若いオスの視線のなかに、お妃さまはあの夏の王さまを見たように思った。そしてその視線に感応する娘時代の自分をも。だがお妃さまはもうあのころの娘ではなかった。あの夏を境に、自分のなかのなにかが永久に失われ、変わってしまったことを、お妃さまは知っていた。きっと向こうもすぐに、相手がもうだいぶ歳のいった母鳥だということを見抜いて、興味を失ってしまうだろう。どんな間抜けなトビだって、五歳のメスと十五歳のメスの違いがわからないわけはない。
 だが対岸の若いオスは、意外なほど長くお妃さまから目をそらさなかった。枝葉の隙間から、鋭い、燃えるような目を、若いオスはお妃さまの全身に注いでいた。
 お妃さまはたじろいだ。なんだってあのオスは、あんなに熱心にあたしを見つめるのだろう。ずいぶんぶしつけじゃないの。メスと子どもを見たら、そこにはオスがいるに決まっていて、そのあたりはそのオスの縄張りに決まっているんだのに、あの若いのはそういうことがわからないのだろうか。あたしがひと声鳴けば、夫がすぐに飛んでくるってことがわからないのだろうか?
 頭のなかでは、お妃さまはこんなことを考えて、さかんに若いオスを非難していた。だが心のほうでは、これとはまったく違うことを感じ、考えていた。
 あのオスがあたしに見とれるのも当然だ。だってあたしは昔は評判の美人だったのだし、いまだってそんなに悪くはない。ちょっと年を食っているかもしれないけど、最近あたしがどれほどきれいになり、娘のように若返ったかは、山のみんなが知っている。子育てに追いまくられて、余裕をなくしていらいらした母鳥なんかにならなければ、あたしはいつだって娘時代のままにきれいなのだ。あのオス鳥はそういうことがわかっている。あの若いオスはあたしに惹かれている。あたしの美しさを感じている。あたしの美しさに見とれている。ああ、あのオスは幸運な鳥だ! 母鳥でありながら娘のような、そういう希有なメス鳥を見たのだから!
 この心の発する声は、お妃さまの非難がましい頭の声を、ほとんど打ち消してしまうほどに大きかった。お妃さまは、もう久しくこんな甘い言葉を聞かなかった。自分をうっとりさせ、満足させてくれるこんな言葉を、もう長いあいだ、誰もお妃さまにかけてはくれなかった。ときどきは、相変わらずおきれいですねとか、あなたはまだ若いとか云ってくれる昔なじみもいたが、そんなものはしょせん通り一遍のお世辞に過ぎなかった。もう長いあいだ、お妃さまはあちこちの毛を逆立てて、金切り声で子どもを叱ったり、子どもの言動にいちいちはらはらしたりする、一羽の必死だが滑稽な母鳥にすぎなかったのだ。
 ところがこの声ときたら! それはお妃さまの、すっかり忘れ去られ、あるいはないがしろにされ、生活の中に置き去りにされてしまったある部分に、いま親しげにすり寄り、訴えていた。お妃さまは久しく聞かなかったその声、長いこと味わうことのなかった満足にほとんど圧倒されてしまい、ぐらりとそちらへ身を預けそうになった。自分がどれほどそうしたものに飢えていたか、お妃さまはまざまざとつきつけられたように思った。ここ最近、子育てを半ば放り出してまで熱中していた入念なお手入れや行水が、いったいどこからやってきたものであったかを、お妃さまはこのときはじめて理解したように思った。
 ああ、あの夏の終わりとともに、あたしが失ったものといったら! お妃さまは、それが自分のなかであたかも復活を求めるかのようにうねりながら叫ぶのを聞いた。
 そのとき、お妃さまの翼の下で、二羽の子どもたちがもぞもぞ動いて、顔をのぞかせた。
「お母さん、どうしたの。あのオス鳥は、お母さんの知り合いなの?」
 お妃さまははっとして子どもたちを見下ろした。二羽の子どもたちは、不安げな顔つきで、一途にお妃さまを見上げていた。体はずいぶん大きくなり、羽も生えそろったけれど、その顔つきはまだあきれ返るほど子どもだった。こんなに大きくなって、巣立ちも近いというのに、二羽ともまだ母親を頼りきっているのだ。
 ……ああ、情けない。お妃さまは思った。
 もうすぐ巣立ちだというのに、この子たちときたら、ふたりともなんて甘ったれた顔をしているのだろう。こんな谷底の気流くらい、もう当然乗りこなせなければいけないのに、こんなにもたもたして、ろくに飛び方も知らないで。それもこれもみんな、あのお調子者のカラスに任せすぎたせいだ。あたしが最初からちゃんと自分で育てていれば、こんな甘ったれた意気地のない子になど、決してなりはしなかったのに!
 ああ、情けない、情けない! お妃さまは胸の中の甘い声を追いやるかのように、大きく首をふった。それからきっと子どもたちに向きなおり、
「知り合いなものか、ぜんぜん知らない鳥だよ。おまえたちより少し年上くらいだろうね。きっとなにも知らないで、あたしたちの縄張りに侵入してきたのだろう。いいかい、おまえたち、おまえたちももうすぐあたしたちのもとを離れて、ひとり立ちする。そうしたら、不用意によそさまの縄張りに踏みこまないようによく気をつけなくちゃいけない。そして将来自分の縄張りを持ったら、ああいう侵入者はすぐに追い出してやらなくちゃいけないよ。ぐずぐずして舐められたらおしまいだ。そうしたら、みじめに追い出されるのはこっちになるんだからね。こういうとき、どうするべきか教えておくから、よく見ておいで」
 とこのように云うや、さっと翼を広げて舞い上がった。そうして鋭く警告の声を上げながら、対岸のオス鳥の頭上をぐるりと旋回した。オス鳥はこの行動の意味に気がつかぬはずはなかったが、本気にしていないのか、歳のいった母鳥のすることとあなどっているのか、少し身じろいだだけでその場から動かなかった。
 お妃さまはこのオス鳥に、もう一周旋回するだけの猶予を与えてやったが、それが過ぎるとだしぬけに翼をたたんで、オス鳥のもとへ一気に急降下して飛びかかった。その流星のような素早さと、蹴り出した脚の強さにオス鳥は驚き、あわてて翼をばたつかせて逃げ出した。お妃さまはなおもそれを追いかけ、二度、三度と追いついて、横っ腹や翼にくちばしで鋭い突きをくらわせた。若いオス鳥は思いがけない激しい攻撃を食らって、ほうほうの体で逃げていった。
 オスの姿が見えなくなっても、お妃さまはしばらく警戒をゆるめずにあたりを旋回しつづけた。空の高みからは、谷底の沢がよく見渡せた。子どもたちとカラスのいる高い木も、その対岸にある、さっきまであの若いオス鳥のとまっていた木も、よく見えた。
 最前あの木の枝に子どもたちととまっていたときには、あたしはひどく愚かで、痛々しい存在だったに違いない、とお妃さまは思った。けれどもいまお妃さまの胸には、守るべきものがあり果たすべき義務がある者の、自分が誰かの手本になるのだと自覚している者の、あの厳しさと強さと誇りとが、ふたたびきざしていた。あの胸のうちの甘ったるい声は、もう引っこんで消えてしまっていた。
 こうでなくちゃいけない。お妃さまは思った。母鳥とはこういうものだ。毅然として強く、同時に情け深く、辛抱強くなくちゃいけない。あたしはもうあの夏の娘じゃない。摂理とはよく云ったものだ。生き物は、春に生まれ、夏の盛りを迎え、暮れてゆく秋を迎えて、冬の訪れを受け入れる。季節を逆さに回すこともできなければ、それをさかのぼることだって、誰にもできはしないのだ。
 お妃さまはいま晴れやかに、誇らしげに、広げた翼を日の光にさらし、吹きわたる風に乗って、あたりをめぐった。そうして自分の力を存分に示し、自分の道のりをもまた広々とした大空に刻みつけてから、子どもたちのもとへと戻った。
「さあ、どうするかわかったね、おまえたち」
 子どもたちは、母鳥の帰還を喜ぶ間もなくそう問いかけられて、自信なさげに顔を見合わせた。やれやれ! まったくとんだ子どもに育ててしまった! こんなのは、あたしの長い母親人生ではじめてのことだ。あたしもなんてばかなことをしでかしたものだろう。まったくいまいましいったら。だけど、まあ、あのオス鳥は、こんなところで思いがけずあたしのようなメスに出くわしたんだ、結局のところ、ちょっとはいい目を見たろうさ。
 お妃さまは子どもたちから目を離し、そのそばにべったりくっついて、相変わらずにやにや下手に出たような笑みを浮かべているカラスを見た。そうして自分がこのカラスに、心底嫌気がさしているのを確かめた。
「さあ、カラスの兄さん、今日の訓練はあたしたちトビにとって肝心要の大事なものだからね、カラスのあんたの出番はないだろうよ。あんたはこれまで、ずいぶんと子どもたちの面倒を見てくれた。でもここから先は、やっぱり母親のあたしでなくちゃいけないんだ。今日はあんたが骨休めをする番だよ、どこか好きなところへ行っておいでよ」
 そう云ってカラスを体よく追い払い、お妃さまは日暮れまで、泣きごとを云ったりぐずったりする子どもたちを叱りつけながら特訓をつづけた。

 それからしばらくして、トビの王さまのところへ弟が訪ねてきた。明るく裏表のない、なつっこい性格をしたこの弟は、王さまの山のそばに自分の縄張りと細君とを持っていて、ときどきこうして訪ねてきては、よそで聞きかじったさまざまな話をしてくれた。
 この日、弟は王さまにこんなことを云った。
「いやあ兄さん、しかしお義姉さんはこのところずいぶんおきれいになりましたねえ。ぼくはこのあいだ、通りがかりにちらっとお見かけしたんですが、若い娘かと思って、あやうく声をかけちまうとこでしたよ。まったく、気がついてよかったですよ。とんだ恥をかくとこだった。そのときはちょっと急いでいたんでご挨拶しそびれたんですが、巣に帰ってから女房にその話をしたら、女房のやつ、ほとんど縄張りから出ないのに、いつもぼくより先になんでもかんでも知っていやがるんだ。お義姉さんのことだってちゃんと知っていて、こう云うんですよ。
 『それ、しばらく前からそうなのよ。なんでも子育てを手伝ってくれるカラスがいるとかいう話よ、うらやましいわねえ。お義姉さんって若いころ、まわりが騒ぐほどの美人だったって話じゃない。いまだって、あの美貌じゃ若いオスなんかころっといっちまうのがいてもおかしくないと思わない? なんだかそういうのがいるようよ、お義兄さんの縄張りのまわりを、しばらく若いオスがうろちょろしてたなんて話があるから。まあ、お義姉さんはしっかりした方だから、そんなオス鳥なんか相手にしないでしょうけどね』
 それでぼくは思ったんですよ、兄さんは実に得がたいメスを女房にしたんだなってね」
 気さくな弟は、ほとんどうれしがらせのつもりでこの話をしたのであるが、聞いた兄貴のほうは、弟が帰ったあと、すっかり顔色を失ってしまった。
 だいたいこの王さまは、狩りはうまい、力もある、王さまとしての資質も申し分なしと、実に頼りがいのある方ではあったが、ちと鈍いところがおありだった。王さまは最近のお妃さまの変化にまったく気がつかなかったばかりか、その縄張りをうろついていたというオス鳥のこともなにも知らず、ここ最近、お妃さまが注意深くあのカラスを避け、子どもたちをカラスから遠ざけていることにも少しも気がつかないでいた。
 王さまは呆然とし、不安に駆られた。なんだっておれはなにも知らなかったのだ。なぜ誰もおれに知らせなかったのだ? そうだ、あのカラスめ、あいつ、いつもはその日あったことをなんでもかんでもガアガア報告してくるくせに、こういう肝心なことを云わないとはいったいどういう了見なのだ? あの役立たずの間抜けガラスめ、こいつは問いつめてやらなくちゃならん。
 王さまはさっそくカラスを探しに出かけた。カラスはいつものように王さまの縄張りの境界をうろついて、あたりににらみをきかせていたが、王さまを見ると態度を変えてすっ飛んできた。
「これは王さま、お出かけでございますか? 今日は狩りにはよい日和でございますねえ」
 王さまはそのしゃがれ声を出す間抜け面を思いきり引っぱたいてやりたかったが、ぐっとこらえて問いつめた。カラスはちょっと驚いたような顔をし、次いで抜け目なく思案をめぐらせるときの、ずるそうな目つきになった。
「ああいや、それはでございます、あたくしは決してご報告を怠っていたわけではないんでして、なんといっても相手は若い、ケツに卵の殻のついたようなひよっこでございますし、王さまとはもう、比べものにならないんでございまして、そのようなオスにまさかまさかお妃さまのような方が……」
 そう云うカラスの顔に、ひどく好色な、下世話な笑みが浮かんだ。王さまはそれを見て、かっと頭に血がのぼってしまい、いきなり翼を広げてカラスに殴りかかった。翼でカラスの頬をしたたかに打ちつけ、腹を蹴飛ばし、黒い頭や胸や体じゅうをくちばしでつついた。
「あ痛! 急になにをなさるんです、あたくしがなにをしたってんです、どうかおやめくださいまし、勘弁してくださいまし、あたくしはなにも……」
「うるさい、このゲスめ、悪知恵ばかり達者なクズめ。だいたい貴様なんぞ、ひと目見たときから虫が好かなかった。それをまあ害にもなるまいなどと、いままで放っておいたのが悪かったのだ。出ていけ、おれの縄張りからいますぐ出ていけ! 二度とその黒焦げのバカ面下げて来るんじゃないぞ。さあ行け、とっとと行ってしまえ!」
 カラスは大慌てで逃げてゆき、王さまはだいぶ長いことその場にとどまって、カラスの飛び去った方角をにらみつけていた。それから身をひるがえして、どうにもむしゃくしゃしてやりきれない気分を鎮めるために、狩りへお出かけになったのである。

 その日の夜、王さまはお妃さまに、おそるおそる訊いた。
「なあおまえ、おれは昼間、あのカラスの野郎にあんまり腹が立ったんで、ひどく殴りつけて追っぱらってしまったんだ。おまえ、あのカラスが惜しいかい」
  お妃さまは王さまをまじまじと見つめた。それからちょっと微笑んで、首を振った。
「いいえ、よく追い出してくださったこと。あたしも最近わかったんですよ。どんなに役に立つといったって、しょせんカラスはカラスで、トビじゃないってことをね。あなた昔よく云ったでしょう、自然の摂理こそが正しく、この世界にあるのはただそれだけだって。あたしもね、このごろそう思うのよ」