土色の魔法の指

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 わたしはそうでもないが、弟は無類のカレー好きである。極端なカレー好きというのはどうも男に多いようだが、その中でも、スパイスをやたらめったらそろえて、その配合や黄金比の研究にのめりこんでいってしまう者と、カレールーを使った家庭料理のカレーこそがこの世でもっともうまい食べ物であると主張する一派とに大別されるようである。
 弟はどちらかというと後者なのだが、仕事柄あちこちに出張するので、各地のカレーを食べ歩く趣味というものを楽しんでいるらしい。そして多くのカレーを食した結果、せんだってついにこのように結論づけた。すなわち、この世でもっともうまいカレーは祖母の作るカレーである。
 これにはわたしもさかんに同意したが、しかしそれは考えてみればまったく不思議なことであると云った。家では家事全般が祖母の手にゆだねられていて、食事の用意をするのも祖母の仕事であったが、祖母は金曜の夕方にはカレーを作ることが多かった。わたしは祖母にくっついて離れない子どもだったので、金曜の夕方になると、祖母のお尻の横で、にんじんやじゃがいもが刻まれ、肉が小さくなって鍋に放りこまれ、ぐつぐつ煮えてカレーができあがってゆくのを見ていた。
 そのころわたしはすでに、悪い魔女がかまどにかけた大きな鍋で、このようにぐつぐつと、気味の悪い材料を煮こんで毒を作ることを知っていた。食材を次々鍋に放りこみ、ぐつぐつ煮る祖母を見ながら、わたしは沼地や森の奥に住む、そうした毒鍋づくりの悪い魔女たちのことをつい考えた。悪い魔女はしわだらけで、しみだらけで、いぼやあばただらけの醜い連中で、にやにやいやらしく笑いながら鍋をかき混ぜるのである。そうした連中にひとしきり思いをめぐらしたあとで、わたしはあらためて料理をする祖母の顔を見るのだが、その顔はたしかにわたしよりしわが多く、しみも多くあったけれども、変ないぼやあばたはないし、とがった鷲鼻もしていないし、頬などはつやつや、つるつるしていたので、わたしはなんとなく安心して、またぐつぐつ沸騰する鍋のなかをのぞきこんだりした。
 そういうわけで、わたしは祖母のカレー作りの全工程を知っているが、それは少しも珍しいものではなく、特に工夫らしい工夫はなにもないのだった。野菜と肉を炒め、水を入れて沸騰させしばらく煮て、そこに市販のルーを割り入れるという、いたって平凡な料理法だった。そのころ田舎のばあさんたちのあいだにも、田舎のばあさんたちなりに、チョコレートを加えるとよいとか、はちみつを少し加えるとよいとか、おいしいカレー作りに関するいろいろな情報が飛び交っていたものだが、祖母はそんなものは一顧だにせず、ひたすらルーの箱の裏書きに忠実であった。ただ、ルーの量は箱書きの倍くらい多かったが、それは祖母がなぜかさわさわした水っぽいカレーに一種の嫌悪を抱いていたからで、カレーというものはどろどろした、粘っこい食べ物でなければ承知せぬという、不思議なこだわりがあったためである。そしてその結果できあがるカレーは、なぜかどんな店のカレーよりおいしいのである。
 わたしは行きつけの店のシェフに、この理由を訊ねたことがある。するとシェフは、そういう話はよく聞く、結局、小さいころに食べていた料理がその人の基準になるのであり、それがこの世で一番おいしいというのは当然なのかもしれないと云った。
 この理屈に一応納得できたものの、しかしどうもそれだけとは思えないなにかが、まだあの鍋の奥にひそんでいるような気もした。こんな疑問は解きようがないが、わたしはしばらくのあいだ、暇に任せて折に触れそのことをつらつら考えた。
 それでふと思い出したのだが、祖母は料理の最中、具材を追加したあとなど、そいつを鍋のなかへ押しこむ必要を感じたときに、どうかすると指を直接鍋につっこんで、用をすませるくせがあった。わたしはある日その現場を目撃してしまい、息が止まってしまった。そしてひどく怒って祖母をとがめたが、祖母は平気な顔をして、歳をとると全身の皮がみんな厚くなる、だからこの指は沸きかえる鍋のなかに入れても少しもやけどをしないのだ、と云った。
 わたしがまだ不信をあらわにしていたためか、祖母はそのほかにも歳をとると身につく不思議なことがいくつもあると云い、おまえも長く生きればわかるだろう、と云った。それからふいにまじまじとわたしを見つめて、おまえはいまは身体が弱いが、身体の弱い子どもほど、大きくなると丈夫になるものである、だから心配はいらないと云った。

 わたしはそれからというもの、このやけどしない指のとりこになってしまい、どうかしてそんな不思議な、無敵の指を自分も得られないものかと考えた。祖母の真似をして、煮えたつ鍋のなかに指をつっこんでみれば案外いけるのではないかと思ったりもしたが、いざぐつぐつといかにも熱そうに沸騰している鍋を目の前にすると、とてもそんな勇気は出なかった。
 それでわたしは祖母の指を、ますます感嘆の想いでもって見つめるようになった。そのころ、庭にこぶだらけの年老いた梅の木がいたが、祖母の指はちょうどその梅の木のように、関節という関節がこぶのように盛り上がって、ぎしぎし音がするのではないかと思うほど、こわばって動かしにくそうな感じがした。指の腹に細かいしわがいくつもあり、手の甲にもしみとしわがたくさんあって、血管や筋が浮き立っていた。祖母は肌の白いほうだったが、手はいつも少し日焼けしていて、なんとなく土を思わせる色をしていた。爪のあいだに土が入りこんで黒ずんでいることもしょっちゅうだった。それでわたしは、祖母はいつも草むしりばかりしているから、指に土が染みこんで土色をしているのだと思っていた。
 わたしがあんまりたびたび祖母の手をとって指を見るので、やがて祖母は、歳をとる途中で、指の関節の痛みに苦しめられたと白状した。その痛みを経験すると、関節がこのようにこぶみたいになって、もう子どものころのようになめらかには動かなくなってしまうが、そのかわりに、とても頑丈になるのだと祖母は云った。
 
 どうやらこの世界では、歳をとったものはみんな不思議な力をそなえるようになるらしい。祖母のカレーの秘密は、もしかするとこのような、土色の指がもつ魔力にあったかもしれない。その指を鍋に入れてひと回しすると、中のものがみんなおいしくなるような力を、あのごつごつした土色の指はそなえていたのかもしれない。
 だがあるいは祖母のことだから、食材に向かっておいしくならないとひどい目に遭わすぞとでも云って、呪いをかけていたのかもしれぬ。それもなんだかありそうなことである。玉ねぎを切ると目にしみて涙が出てくるものだが、祖母は決してそのようにならなかった。わたしが不思議に思ってどうしてか訊くと、祖母は、歳をとれば玉ねぎだってこっちの云うことを聞くようになるのだ、と云ったものである。それでわたしはつい、祖母が玉ねぎに向かって、年寄りの云うことは聞くものだよ、この目を痛くするとひどいよとおどしているさまを思い描き、たいへん感心してしまったのであった。
 しかしここまで来ると、なにやら醜い魔女の鍋煮込みにひどく接近してくるような気がしはじめるから、あまり深追いはしないでおく。いずれにしても昔の年寄りというものが、不思議な力を身につける特権を有していたのは確かなことのようである。わたしとこんなやりとりをしていたころ、祖母は六十そこそこだった。昔は、六十を過ぎれば文句なしに年寄りであり、もう大方の仕事から引退して、縁側に座ったりこたつに当たったりしていればよかった。祖父は父が結婚してわたしが生まれたとたん、家督のすべてを父に譲り渡して隠居の身になり、数十年ぶりに絵筆をとってまた絵を描きはじめた。祖父は家長の特権として自分だけの書斎をもっており、何びともみだりに立ち入ることを禁じられていたのだが、わたしや弟は別だった。祖父が机に向かって、どこかで撮ってきた花の写真を吟味したり、顔料を溶かしたり練ったりしている横で、われわれは静かにしているという条件つきで、植物図鑑を開いたり、古いカメラや文具や工具などを手にとって眺めたりしていてよかった。それらの多くは非常に古びていて、たぶん祖父と同じくらい歳をとっており、古いもののもつ不思議な魅力に包まれていた。
 書斎は奥まった、静かなところにあった。窓の前に、これもまた歳とったブナの木が一本立っていて、それがあたりの景観に不思議な変化を与えていた。このあたりにブナの木はこれ一本しかなく、それはどこの家にも生えている防雪用の杉の木とはぜんぜん違って、きつい匂いのする樹液も出さないし、木肌は白く清らかで、なにか大変神聖で、貴重なもののように見えた。枝のあいだから漏れてくる木漏れ日も、杉の枝葉が投げかけてくるのとはまた違った繊細な、不思議な光と影を、窓ガラスや地面の上に遊ばせていた。
 そうした光の揺れる夏の午後などには、わたしは窓からブナの木を見て、ここはどこか別の土地にある別荘なのだと空想して、優雅な気分にひたっていた。わたしが窓から見ていると、決まって祖母が草むしりにあらわれ、古くなったプラスチックの風呂椅子に腰かけて、のんびり草をむしった。しばらくすると祖母はおもむろに立ち上がって、物干し竿にぶら下がった洗濯物をとりこみ、のんびり家に帰っていった。
 祖父母のあいだでは、時間は非常にゆっくりと流れていた。畑の生りものがいつの間にか実っているように、おおっぴらに自分の存在を告げることなく、しかし決して過たずに流れていた。それは両親の生きている時間とはやはり別もののようにわたしには感じられ、将来そういう世界のなかに身を置くようになると、いろいろと不思議な力も身についてくるのだろうと思ったりした。

 わたしが歳をとったとき、祖母のような魔力をもてるだろうか。ふとそんなことを思ったが、そのためには、まだずいぶん多くのことが必要であるような気がする。祖母が期待もせず考えもせずに自然に得ていたものを、わたしが得るためには、まだずいぶんたくさんのことを経験し、ずいぶんたくさんの願いごとを願わなければならないような気がする。祖母のカレーの秘訣は、年を経て得た魔力と、祖母の生きた時間によっていた気がしてならないが、それは現代の六十年より、はるかに密度の濃い六十年であった気がしてならない。
 こんなことをつらつら考えていたある晩、わたしは久々に風邪をひいた。それで身体を温め早く布団に入って休んだが、そういうときには、子どものころの病気や看病の思い出がふとよみがえってくるものである。
 わたしは昔、むやみに身体が弱かった。自家中毒の常習犯であり、ひとつ治ったと思えば次の病にかかり、ぜんそく持ちで風邪をひくと毎度ひどい目に遭った。その看病も祖母の仕事だったが、熱にうなされ、夢なのか目覚めているのかよくわからないようなうるんだ状態で寝ていると、ときどきそっと祖母の手が額に触れた。あんまりたびたび熱を出すので、わたしは祖母の手の、ざらざらしてしわっぽく硬い感触をすっかり覚えこんでいた。それはわたしを安心させ、病気の苦しさを少しのあいだ薄れさせる力をもっていた。わたしはきっとそれも、歳をとるとそなわるという不思議な力のひとつに違いないと思い、祖母の手が悪いものをみんな吸いとってしまうのだろうと思ったりした。
 病気のたびに、わたしはこのようにして、歳をとることに不思議な希望をもった。病気と死との関係は、そのころわたしのなかでまだ曖昧だった。老いと死との関係についてもそうだった。だが熱にうなされているとき、息が苦しくてどうしようもないとき、わたしはその暗闇でむやみにもがいているような感覚のなかで、その闇を払ってくれるような祖母の手の威力というものを、素朴に強く信じていた。それが自分を苦しみのなかから引きずり出し、また明るい安全なところへ連れて行ってくれるだろうというようなことを、わたしは信じていた。それはもしかするといまだに、どんな病のときにもわたしをそこから引き出す役割を、密かに果たし続けているのかもしれない。
 
 夜中に、わたしは少し熱を上げたかもしれない。なんだかうるうるとしたあいまいな意識のなかで、わたしは夢を見た。わたしは乳児で、祖母におぶわれていた。熱を出したわたしを、祖母がおぶって病院から連れ帰るところなのだ。祖母はおんぶひもでわたしを背負い、その上から濃いえんじ色をした、大きな綿入り半纏のようなものを着て、薄暗い雪道を歩いていた。日が暮れかかって、あたりは不思議な紫色に染まっていた。雪は深いため息でもつくように、絶えず上から落ちてきていた。長靴が雪をぎゅうぎゅうと踏みしめる音が響いていた。
 祖母はひと足ごとにふうふう云った。それは祖母のくせであった。少し太ってきたのと膝が痛いのとで、歩くのは祖母にとってひどく難儀なことなのである。わたしは祖母が歩くのに合わせて揺れながら、外套の襟の隙間から、雪をひっきりなしに落とす暗い空を見ていた。ときどき雪が額や頬に当たると、ひどく冷たくて気持ちがよかった。それは雪がわたしを心配して、わたしの熱を冷ますために、外套の隙間を縫ってわざと落ちてきたのにちがいなかった。
 足音が響き、ふうふう息を吐く音が続いていた。外套の中はわたしの熱と祖母の熱とでしだいに暖まり、やがて耐えがたいほど暑くなってきた。わたしは暑さを訴えるために少しぐずったかもしれない。そのときふいに視界が大きく開けて、わたしは冷たい外気のなかにさらされた。そして次の瞬間には、わたしは祖母の腕のなかにいた。祖母が外套を脱いで、わたしを下ろしたのだった。祖母ははめていた手袋を口にくわえて外し、むき出しの手をわたしの額の上にあてがった。皮膚のざらついた感触がして、手のひらの暖かさが伝わってきた。
 祖母はわたしの熱を吟味するように、しばらく手をそのままにして、小さく唇を動かしてなにかもごもご云っていた。それからふいに手を離して、わたしの額に人差し指で三度、すっすっすっと線のようなものを描いた。それがすむと、わたしはまたおぶわれてえんじ色の外套にくるまれ、揺られはじめて、あとはいつの間にか寝てしまった。

 目が覚めたときに真っ先に思ったのは、これはわたしの伯母の記憶ではないかということだった。伯母は赤ん坊のころ大病をして、もう助からないといわれた。近所の人たちが心配そうにお悔やみを云いに来たり、気の早い人が葬式の準備をしたりしはじめた。まじないをするいんちき巫女が来た。変なお札を勧める人があった。祖母はそうしたすべてに腹を立て、あまりにも腹を立てたので、みんな追い払ってしまい、翌朝まだ暗いうちに起きて、遠くの町の医者へ子どもを連れて行った。まじないもお札もくそくらえとばかりに雪道を半日歩き通して、祖母は娘を助けたのであった。その娘も、いまではもう七十を過ぎた。
 この話は、ひとつの物語にしないではいられないほどにわたしを惹きつけた。わたしは昔それを書いた。そして今度はそれを自分のことのように夢見たものだろうか。それとももしかすると、それはほんとうにあったことだったろうか。
 祖母が額に描いた三本線の意味を、わたしは知らない。なにかのいたずらであったか、あるいは古い病退治のまじないかなにかだったろうか。わたしは祖母の予言通り、中学に入ってからはあまり病気らしい病気もしなくなって、その後もおおむね健康体を維持している。あの三本線がまじないだとしたら、祖母は同じまじないを伯母にもしたのかもしれない。そして伯母は、そのまじないと遠くの町医者の両方のために助かったのかもしれないのだ。
 祖母がすっかりぼけてしまったいまは、答えを聞き出すことはできないのだが、わたしはその夢の感触に、その後ずいぶん長いこと浸っていた。