座敷わらし

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 東北に座敷わらしという妖怪のようなのがいることは、有名な話だから多くの方がご存じだと思う。いまでも座敷わらしの出る宿などというのがあって、その宿に泊まると、夜中寝ている最中に枕を返されたり、布団を剥がされたりしてえらい目に遭う、ということである。
 座敷わらしは一種の福の神みたいな存在で、座敷わらしのいる家はよく栄えるが、こいつがいなくなってしまうととたんに落ちぶれてしまう、といわれている。着物を着た子どもの姿で描かれることが多いが、それはやはり多く戦前までの話であって、近年の座敷わらしは洋服を着ているようである。どうしてそんなことが云えるのかというと、わたしはこいつを見たことがあるからなのだ。
 うかつなことに、わたしはついこのあいだまで、自分が子どものころ座敷わらしに遭遇していたということを知らなかった。母に話をしなかったら、いまでも知らなかったかもしれない。だがどうもそうらしいということがわかった以上、一種の珍奇な記録として、わたしはこれを書き記しておく義務を感じるのである。

 子どものころ、親戚の集まりなどがあって母の実家に行くと、大人が飲み食いするあいだ、子どもは子どもどうし集められ放っておかれたが、母方のほうはどうも男ばかり多く生まれる家系らしくて、女の子はわたしひとりきりだった。男の子たちはなにかと乱暴な遊びばかりするのでわたしはついていけず、たいていそっとその場を抜け出して、仏間や応接間など、人があまり寄りつかないような部屋に逃げこんで、ぼうっと時間を過ごすことが多かった。
 そんなとき、ときどき先客として別の女の子が部屋にいることがあった。七歳か八歳か十歳か、正確な年ごろはわからないが、わたしより少し年上だった印象がある。毛先が肩に届くような長めのおかっぱ頭で、いつも白いブラウスを着て紺色のスカートをはき、白い靴下をはいていた。おとなしそうな顔の、無口な女の子で、わたしが部屋に入ってきても特に気にした様子もなく、飾り物の鞠を転がしていたり、小さな木彫りの力士の人形を使って、相撲をとらせて遊んだりしていた。
 こんなとき、子どもどうし自然仲よくなって一緒に遊んだりするものなのかどうか、わたしは知らない。少なくともわたしたちはそうではなかった。おかっぱの女の子は無口で、わたしも無口だった。否、無口というより、ふたりとも遊び友だちを必要としないたちの子どもだった。女の子はあたりのものを利用してひとりで遊んでおり、わたしはわたしで欄間のすばらしい装飾や、床の間の掛け軸を見るのに夢中になっていた。
 母の実家は建築会社をやっていたので、その家は日本建築の粋を集めたようなおもむきで、ともかくどこも美しかったのである。廊下の板まで美しくて、わたしは廊下に腹ばいになって、うっすら見える整った木目をじっと見つめていたものである。廊下から畳の間に上がる敷居も、あれは竹製なのだろうか、無数の細い線が刻まれて美しかった。畳のへり飾りも美しかった。障子の黒い引手は無花果のような形をしていて、小槌などかたどった、螺鈿のようなきらきらした飾りがついていた。床の間の掛け軸やキジの剥製、飾り棚に鎮座している大きなこけし、一枚板のテーブルの上に乗った大理石の灰皿など、その家にあるものは皆わたしの目を惹きつけてやまず、それらを見ているだけで、わたしはいくらでも時間を過ごすことができた。
 わたしの避難所であった仏間と応接間は、玄関脇に隣りあって並んでいたが、食堂や居間のような生活空間とは、廊下をはさんで峻別されていた。生活空間には勝手口から出入りするようになっており、親戚や会社の人間など勝手知ったる人たちは皆、勝手口から入ってきて食堂で話をするのが常だった。玄関や応接間は正式の、なにか形式ばってよそよそしいお客のためのものであり、ほとんど使わることがなく、いつもひっそりとしていた。
 そちら側は雨戸も半分くらいしか開けられず、あまり日が当たらず暗くて、なんとなくじめじめしていた。部屋の四隅からは、不気味な暗がりが這い出してきて壁にまで広がっていた。わたしが動くと、その暗がりは誘うようにゆらゆら緩慢に揺れた。そこは明らかに、人が暮らすための場所ではなかった。これらの部屋はよそから来るお客や死者のための場所であって、家人といえどもみだりに踏み荒らしてはならぬとでもいうような、威厳のような一種の冷たさのようなものが部屋じゅうに漂っていた。ところがわたしは、居間や食堂のような人間のための空間ではどこかくつろげないものを感じたが、死者や客人のための場所へは平気で入ってゆく図々しさのようなものをもっていて、そうした場所にいると、自分がはじめて隅々までくつろいで、ゆったりと息がつけるような気がするのだった。
 仏間の仏壇は、わたしが特に好きなもののひとつだった。左右に開かれた仏壇は、取っ手や縁取りが金でできていて、黄金の滝のような飾りがいくつもぶらさがっており、それを眺めていると、なにか夢のように美しい別の世界を見ているような気がした。長押のところから、着物を着た男の人や女の人の写真がわたしを見つめていた。それでわたしは、この黄金の世界はこのように死んだ人たちの行く世界であり、わたしも死んだらきっとそこへ行くことができるのだろうと考えて、それをたいへん待ち遠しいことのように思ったりした。
 そんな場所へ自分よりも先に潜りこんでいるおかっぱの女の子に、わたしは非常な親しみをもっていた。だが話しかけて友だちになろうとは思わなかった。ときどきなにかの拍子に視線がぶつかったりすることもあったが、お互い微笑んだりするような気も遣わなかった。人間である以上、ときにはこのように同じ空間にいなくてはならないこともあるが、そういうときには、なるたけお互い邪魔にならないようにやりすごすのが一番いいのだと、そのころからわたしは思っていた。人はひとりずつ、自分だけの世界と宇宙とをもっている。わたしたちは星のように、同じ空にいながら、互いに少し離れて孤独に光っている。人間はなにかそのようなものであると、そのころからわたしは思っていた。だがわたしのそうした考えや好みは、ひどく侵されやすい性質をもっていることに、わたしはこのときすでに気がついていたようである。おかっぱの女の子はわたしを決して邪魔せず、侵害もしなかった。わたしもそうしたくなかった。わたしは自分が調度品やなにかにひとりして夢中になっていたいように、その子もひとり夢中になって時間を過ごしたいだろうと思い、それを壊してはならないと思っていた。そしてこのような無言の諒解が成立する関係が、ひどく貴重なもののように思えたのである。
 わたしはおそらく、ほとんど誰よりもこの女の子が好きだったろう。そしてそのために、わたしはこの子と交流する必要をまったく感じなかった。
 そうしてわたしがふと気がつくと、その女の子はいつもいつの間にかいなくなっていた。なんとなくもの寂しいような気がして、わたしはその子を探しに出るのだったが、どの部屋にもその子はいなかった。それでわたしは、あの子はたぶん母親と帰ったのだろうと思った。そんなとき、わたしの頭のなかには、母親に手を引かれて家から去ってゆく女の子の姿がはっきりと浮かんでいて、なんとはなしに寂しげな、うらぶれたような雰囲気に包まれた映像を思い描いた。あの女の子のように、いつの間にか来て、いつの間にかすっといなくなってしまうような母親が、あの子にいるのだというようなことをわたしは思っていた。そしてなんとはなしに、その影の薄さ、あるいは存在のひそやかさとでもいうべきものを、ひどく美しいもののように思っていた。
 あの子はあの仏間の隅の暗がりに、溶けて消えてしまったのではないかしら、わたしもどうかしてあの隅っこの暗がりの中へ、影ごと溶けてゆけないものかしら、というようなこともわたしは考えた。わたしはいつも、自分が部屋の四隅の暗がりに呼ばれている気がした。その暗がりのなかに自分の場所があるような気がした。自分はほんとうはそこで溶けているべきで、こんなふうに人に交じって人の格好をしているのは不当なことなのだという気がいつもしていた。あの女の子は、ついにその不当な立場から、溶けたバターかタールみたいになって、あの暗がりの中に戻ることができたのかしら、などと思ったりしていた。

 だがいつからか、わたしはその女の子を見なくなってしまった。小学校に上がると、毎週プール教室に行く前に母の実家に寄るようになったが、そのころはまだときどき見かけたような気がする。仏間で彼女を見かけると、わたしはああ、あの子は今日来ているのだな、と思って、なんだか安心していた。わたしはプール教室がいつまでもいやで怖かった。とくに真っ白な更衣室で着がえるのがいやで、更衣室に近づくとお腹が痛くなってきてトイレにこもったりしていたが、その女の子をちらりと見かけでもした日は、不思議とお腹も痛くなくて、いつもよりは元気に過ごせるような気がした。
 中学になると、母の実家に行く機会は急に減ってしまい、それこそ特別な集まりのときだけになった。そのころには、もうその女の子の姿をほとんど見なくなっていたような気がする。高校のときに祖父が亡くなったが、葬式のとき女の子はいなかった。大学のとき伯父が亡くなったが、その葬式のときにもいなかった。そしてたぶんそのころから、母の実家は目に見えて傾きだした。否、見た目には相変わらず建設会社をやっている家ではあったのだが、祖父が辣腕を振るっていたころの羽振りのよいおもかげは、すでに遠くなっていた。男ばかり生まれる家に女ばかりが残り、最後には祖母ひとりになった。いまはその祖母も施設に入っている。祖父自慢の美しい家は、維持管理に莫大な費用がかかる。いとこが結婚してそこへ帰ってきたが、そんな金は自分にはないという。昔は美しかった庭もいまは荒れているし、掛け軸は誰も替える人がいない。キジの剥製もこけしも埃をかぶっている。おもむきのある陰影があるのと、陰気なのとはぜんぜん違う。あの家はいまではどこか潤いを失った、陰気なだけのものになってしまっている。

 今年のはじめ実家に帰っていたとき、母にはじめてあの女の子の話をした。いまなら別に訊いてもいいような気がしたからである。親戚の集まりから、いつの間にか特定の女子どもが消えてしまうということはときどきあった。それが離婚とか別居とか、あまり口にしないほうがいい理由によるものであることは、子ども心にわたしにもわかっていた。わたしはいつからか、あの女の子もそういう理由で消えてしまったのだろうと思うようになっていた。長じてからは、その子のことを思い出すこと自体少なくなった。
 母にあの女の子の話をしたのは偶然である。その日は父が家にいなくて、わたしたちはふたりで飲んでいた。雪が静かに降っている晩だった。電球のオレンジ色の明かりが家の中を満たし、テレビが小さい音量でついていた。わたしはなぜかふと、あの女の子のことを思い出して、母に訊いたのである。子どものころ、ときどき見かけたあのおかっぱの女の子は、いったいどこの家の子だったのだろう、と。
 母ははじめ首をかしげていた。そして、ひとりずつ可能性のありそうな人の名前を挙げていったが、どれも違うということになった。だいたい親戚にわたしと同じくらいの年の女の子がいたということ自体、ありそうもないと母は云った。まったくいないわけではないが、東京など遠くに住んでいる人ばかりで、そんなに頻繁に見かけたわけはない、そんな女の子はいなかったはずだ、と母は不思議がり、やがて、ちょっと気味悪がりながらこう云った。だいたい、白いブラウスに紺色のスカートの女の子など、わたしは一度も見たことがない、と。
 どうやら、わたしは見なくていいものを見ていたようである。それがわかったとき、驚いたと同時に、やっぱりなという気もした。わたしはあの女の子にはとても親近感をもっていた。わたしが親しい感情を抱くものなど、昔からたいてい人間ではなかったし、いまもそうである。わたしは部屋の四隅の暗がりに溶けそこねたが、あの子はちゃんと溶けたのかもしれないのである。そしてたぶん、それは正しいことなのである。そのほうが本来のあり方なのであって、こんなふうに四六時中ちゃんと物体でいるほうがおかしいのだと、やっぱりわたしには思えてならない。
 おかっぱの女の子は、どうもあの家の盛衰の鍵を握っているような気がすることから、座敷わらしだとわたしには思えるが、このように子どものころの漠とした記憶の一部である。確かなことはわからないし、別のなにかだったかもしれない。それはそれでかまわない。その子が現れたり消えたりできるという、そのことだけでわたしはなんだかいいような気がする。そんなものが母の実家にいて、子どものころ見ることができただけでも、わたしはよかったような気がする。