静かな河のほとり、大きな樹の下で、ひとりの修行者が物憂げに考えこんでいた。
「私の胸には、いま余人の思いもかけぬものが宿っている。私はついに修行を完成し、この上ない自由と安らぎを得た。だが私の心に、いまひとつの不安が兆している。なるほど私は迷いを脱した。長い戦いの果てに、ついに戦う必要のないことを悟った。私は自由であり、私の苦しみはとるに足らない。そのような境地に私は達したが、その事実はいま私に重くのしかかる。考えてみよ、私は完成されたものとなったが、完成されたものに、さらなるもの、さらなる生が必要だろうか。私はこの先どうすればよいだろう?」
修行者は誠実そうな顔を曇らせ、首をふった。
「このまま食を絶ち、死を迎えよう。なすべきことはなし終えたのだ、このうえ地上にとどまる必要はない。地を這うには体が必要であり、体には食物が欠かせない。そのために、私はまた托鉢に赴き、人に交わるのか。そして好奇の目、誤った尊敬の目、密かな軽蔑の目などに身をさらすのか。無意味だ、そんなことは! 修行を完成すれば印がもらえるというわけでもない、私はあくまでひとりの修行者であり、すべての人と同じ人間だ。真理を悟ったなどと吹聴するのは愚かなことだ。人は自分より優れた者の出現を好まず、自分より博識な者の出現も好まない。真理を目指す者ほどそうなのだ、私は他人の誇りを傷つけたくはない。口を閉ざし、ひとり完成の悦びに浸ったまま、静かに世を去るべきだ」
修行者は決意したように頷いた。だがまたすぐに、顔をしかめて考えこんでしまった。
「私はなぜ迷っているのだ? 人の世へ出てゆけば、私はまた人になるのだ、私の忌み嫌う私になるのだ。その私を滅ぼそうと、私はあれほど苦しんだのではないか! ようやく自由になったいま、なにを迷う必要がある? 私の心よ、なぜお前は訴えるのだ、ひとり真理を抱えて世を去るなら、お前の生きた意味はどこにあるのか、と。なるほど人は結局自分自身をしか導くことができない、だがお前はまったくの独力で修行を完成させたとでも云うのか、と。お前は多くの教えを拝聴し、どれも納得がいかなかった。どんな修行も試したが、どれもなにか違うと感じた。お前はそのような自分を恥じ、苦しんだ。お前は争いを嫌い、すべてのものと調和しあうことを夢見ていたから。それでお前は調和を妨げる自分自身を滅ぼそうと試み、実際に自分を殺す寸前まで行ったのだ……そしてお前は知った、そうした自分が幻であったことを、すべては初めからひとつであったことを。さあもう一度、お前の道のりを思い返せ、そしてそれでもなお、ひとりここで命を終えようなどと思えるか、よく考えろ」
修行者の葛藤は長かった。さまざまな表情がその顔に浮かび、さまざまな影が通り過ぎた。彼は戦おうとした、自分の中から悪しきものを叩き出そうとして。だがふいにはっと目を見開き、思わず両手で頭をつかんだ。
「危ないところだった! 性懲りもなく元の穴へ落ちこむところだった。なにが『修行を終えた』だ、愚か者め! だがもとより誰よりも昏く愚かな私だ。その私がこのように、なにものかを掴んだのだ。なにものか、真理の切れ端とでも呼ぶべきものを。そして真理とは切れ端のひとつで十分という性質のものだ。その切れ端が切れ端を引きよせる、もともと一本の糸だったのだから……」
修行者はふと、まぶしさを感じて顔を上げた。その顔に、無数の木の葉が複雑に重なりあって形づくる木漏れ日と影とが落ちかかり、笑いさざめきながら誘い出すようにゆれ動いた。彼の目はほとんど無意識にその光のゆらめきを追い求め、しばし呆けたように眺めていた。やがて彼の頬に赤みが差し、目が星のように輝きだした。
「わかった!」
彼は叫んで、勢いよく立ち上がった。
「いまわかった、私がなにを知ったかを、そしてなにをなすべきかを!」
彼は両手をつき上げ、あたりを跳ねまわった。
「さあ修行者よ、一か八かやってみろ! 行ってお前の存在を人に告げ、お前の知ったことを人に告げ、お前の瞑想を生きた血に変えてみろ! 嘲笑や無理解にたじろぐな、人の心は頑なで、他人の云うことなど受け入れぬようにできている。だがもしも私の言葉が、心あるたったひとりの人にでも響くなら、そのとき私は無上の喜びを得るだろう。私に耳を傾けてくれる人がある、私に心通じあう友ができる! そのとき私は、真理がその身を隠している殻を永遠にうち破る。そしてそれは万人のものとなるだろう」
修行者は誇らしげに胸を張り、決意に満ちて歩きだした。彼の頭に、かつてともに修行した者たちのことが浮かんでいた。まずは昔の仲間に自分の考えを話してみよう。わかったことを告げてみよう。
彼はもうためらわなかった。風のように川を越え野を渡り、思いのように速く、彼は進んだ。
初出:2021/12/21「雪下」第十九号