復活

 ご覧のとおり、ワードプレスに嫌気が差して一度はやめてしまったが、また元へ戻した。過去の記事もおおむね復活させてある。

 ウェブサイトの運営はなかなか難しい問題があって、結局どんな方法を採っても一長一短あり、その中でなにを優先し、なにをやりたいかというような基準を明確にした上で運営方法を決定しなければならないというのは、これはウェブサイト運営に限らずどんなことでも同じである。
 しかしこのありふれたことが実に難しいので、どのみちひとつで全てをまかなえる完璧な手段などないのだから、いつものごとくこの世の複雑さと不完全さの前に立ってあれこれ悩まねばならない。そしてあれこれ悩んだ結果、試験的にブログをワードプレスに戻し、よりシンプルな機能だけに絞って利用してみることにした。自分の思うウェブサイトのあり方と機能とデザインとの妥協点を、最大限探ってみたつもりである。

 ウェブ上での自己開示という問題は、いまもって、外に向かって開閉をくり返すわたしの心理との複雑な兼ね合いの中にある。いずれにしてもものを書くような人間にとって、自分以外の世界というものは、それがほんとうに存在するかどうかにはじまって、生涯にわたってその関係を模索してゆかねばならないものである。自分の外の世界をまるでないものとみなして、ひとり隠遁者のようになってゆくことはできる。そしてこれがわれわれのような人種にとって一番簡単な方法である。自己の内面に終始して少しも疑いを抱かないですむような幸福な隠者にとっては、自己以外の存在というものは、本質的にあまり意味をなさないからである。
 ところが、そのような方向へひたすら突き進んでゆくと、自分のように半端な疑り深い人間はあるときふと疑問を抱かざるを得ない。これはほんとうに正しいか。自分はほんとうに正しい道を進んでいるのだろうか。

 ふと外を見ると、気づかないうちにもう秋である。稲はたわわに実って頭を垂れているし、畑のキュウリは枯れてしまった。もうオクラもトマトも採れなくなった。そしてふと、自分が季節の移ろいをまったく感じることもなくやりすごしてしまったこと、あんなに高い青空が控えていて、山の緑は翳りをみせ、風も涼しくなったのに、ここ最近の自分はそうした親しいものたちに目もくれないで、なにかひどく小さな、狭苦しいものに没頭していた、そのことに対する名状しがたい羞恥のようなものが湧いてくる。
 もしもわたしがひたすら自己の救済を求め、それこそがこの世における自分の使命であり幸福であると確信し断言できるような人間だったならば、外のことは外のこととして、微笑んで流してしまえばよい。しかし季節の移ろいや自然そのものが、自分にとってそれ以上のなにかであるとすれば、否、それ以上のなにかを迫ってくるものであるとすれば、これに目をつむってひたすら自己に沈潜していることは、ほとんど一種の冒涜を働いているに近いことになる。

 このようなもののあいだでわたしは常に揺れている。自己にこもろうとすれば、それとは逆の力がその行為にひそむ本質的な愚かしさを思い出させようとし、外へ向かってゆこうとすればわたしは無限の壁にぶつかり、そしてその壁を通じて恥や虚無感や無数の感情にさらされる。そしてその感情が自分のうちへ戻るようにとわたしにささやきかける。

 この数日、ブログを再構築しようと思って過去の記事を読み返していたが、わたしはそこにいまの自分にとって救いとなるような言葉が確かにちりばめられているのを見た。結局、わたしはわたし自身と格闘し、わたし自身によって救いを得る。わたしが書くものは、単にその仲介に過ぎないように思われる。それは別になんの問題もないが、しかしわたしが最終的に救いを得るにしても、わたし自身と格闘するという問題を外すことができないのは確かなようである。
 わたしはいま現在のままでいれば、非常に満ち足りたひとりの隠遁者である。衣食住の心配を当面する必要がなく、締め切りもなく好きなものを好きなときに書いていられる、これ以上ないほどの自由をわたしは有している。そしてその気になればその自由を死ぬまで行使する権利がわたしにあるはずである。それはわたしと摂理との約束ごとである。しかしその約束ごとの中で、なぜかその約束に安住できない自分というものがある。その理由はいろいろに説明できる。わたしが優柔不断で意志薄弱なこともあるだろうし、なんだかんだで物好きなこともあるだろうし、なにより自分が思った以上に闘争的な人種であるということがある。

 この歳でようやくわかったのだが、わたしは葛藤のない状態が長く続くことに耐えられないようである。どうもいつもなにか戦う相手を求めているようである。そしてその戦う相手というのは自己自身であって、放っておけばなんの問題もなく充足していられるわたし自身というものを、わたしはあえて駆り立て、自分にとって不愉快な、不利な、ほとんど不当な戦いの中へ自分を持ちこもうとする癖があるようだ。
 この性質のために、わたしは神と戦う羽目になり、その神自身を否定する羽目になり、また別のものをつかむ羽目になったのだが、その別のものもおそらくやがて手放すのだろうと思う。わたしが求めているのは結局、完成された自己という見果てぬ夢である。そんなものがほんとうはないにしても、そんなものを目指すことがどだい間違っているにしても、わたしの内面はなにかそうしたものに向かって戦わずにいられない衝動を根深くひそませているようである。

 そしてその衝動が、わたしをして自己の外へ出てゆかせるのだが、どうもまたそういう時期が来たようである。わたしはわたしとの次なる戦いを開始した。ゴングが鳴り響き、いまふたりの戦士が向かい合っておのれの拳をどう相手にぶつけてやろうか、しきりと隙をうかがいながら思案しているところである。

 とはいえ、外に向かって出てゆく経験にほとほと乏しいわたしのことである。ろくなこともできずに終わりそうだが、しかしいま猛烈に誰かとなにかしたいので、誰となにがしたいのかはまだ自分でもわからないけれども、ともかくなにかしたく思っている。ブログを復活させたのも、そういう心理と無関係ではないので、わたしはいま開放の時期にいるのである。いずれ時が来ればまた閉塞へ向かうだろうけれども、それまでのあいだにどれほどおのれ自身というやつに戦いを挑めるか、どれほどバランスのとれた……あるいは前よりひどいアンバランスに陥るかもしれないが……境地に達することができるか、神も仏も見ているがいいのである。

 やはり寂滅の境地などわたしには生涯縁遠そうだが、それでいいのではないかとも思っている。