クマとヒト

 ここ数日、フランス・ドゥ・ヴァールの『サルとジェンダー』という本を読んでいた。霊長類学者であるドゥ・ヴァールの本は、人間の道徳心や日常的なふるまいの起源について、いつも興味深い問題を投げかけてくれるが、読んでいるとどうもその内容とはまったく無関係に、近ごろちまたに出没するクマのことが頭に浮かんでくる。

 第一に、現実問題として、われわれヒトはクマの食い物でありうる。自分がほかの動物のエサになり得るなどということを、人はずいぶん長いあいだ忘れていたかもしれない。だがこうも連日人がクマに襲われている状況では、これはいまや肌に迫ってくる問題であって、先日もわたしが散歩していると、近所の女性が話しかけてきて、その人も朝に夕にあたりを散歩しているのだが、散歩中恐くはないかと訊いてきた。

 わたしはもちろん恐いと答えた。いつ何時どこでクマに遭遇するかわからないし、事実毎日市内のどこかでクマが出ていて、毎日誰かがクマにやられている。非常におそろしい状況だと思うと答え、その人も恐いと思いながら散歩していると言った。
 わたしたちはもうそういう日常を生きている。ツキノワグマは人を食うために襲うのでないという意見もある。数年前までならそれで納得していたかもしれないが、いまとなっては全面的に同意する気になれない。よしんば食うために襲うのでないとしても、野生動物に襲われるのと、襲われたあとで食われるのとでは、少なくとも攻撃され、肉体を傷つけられるという点ではあまり違いがない。

 クマに襲われて亡くなった人の遺体は、ずいぶんひどいものらしい。クマは頭部を攻撃する傾向があるので、たいていは目をやられており、逃げ延びた人の話によると、やられている最中は、攻撃される音が頭蓋骨に響くという。耳や鼻はなくなってしまう。何よりおそろしいのは、自分の体が獣の爪や牙でやられてゆくのを、一撃でやられるか恐怖で失神でもしない限り、意識のある状態で受けとめなければならないことだ。

 人間にこのような攻撃を加える生き物が、すぐそばをうろついている。わたしはもうこれまでと同じわたしではない。わたしは人間である以前に、別の生き物のエサである。

 この底冷えのするほど簡潔で単純な事実の前に、何かつけ加えられることがあるかどうか。わたしが豚や鳥や牛を食うように、クマがわたしを食うかもしれない。結局、ただそれだけのことであり、ヒトはただそれだけの存在でありうる。クマがわたしを食おうが、わたしがクマを食おうが、大勢になんの影響もないし、どちらも自然なことであって、いいも悪いもない。いいとか悪いとかは人間の問題で、クマの問題ではない。

 わたしは先だって、半年前に自分が書きかけてやめていた小説を、また書いてみようかと思って読み返した。読めたものでなかった。わたしは変わってしまった。わたしはもうこれまでのように自分を人間様だと思って、なにか神にも等しいような崇高な精神だの魂だのをもった存在だと純粋に信じることができない。いや、それはいまでも事実ではあるかもしれないが、事実の一部に過ぎず、しかもその一部は、あまりたいした一部ではない。現代文明を生きる人間が無意識に前提としているものは、この境地に立てば、ほとんど無意味なものであるとも言える。

 わたしは変わってしまった。わたしはもうわたしの書くものに、これまでと同じ意味を見出せるかどうかあやしい。相変わらずわたしは書くだろうが、しかしその書いたものを、ひどく冷ややかに、冷笑を浮かべて見つめるようなことになりはしないか。いま現にわたしたち地方の人間が、クマの恐怖には決して直面しそうにない、都会に暮らすもっとも進歩的な生活を送っている人々を、半ばうらやむような、しかし同時にどこか憐れむような目で見つめているのと同じように。