最近、ゆえあって日米地位協定について勉強している。これはたしかにほんとうにひどい。こんなことを勉強しはじめると、アメリカという国のずるさや唯我独尊的態度に心から悲しみが湧いてくる。なぜそんなことになるかといえば、やっぱり彼らの中のえらい人たちが世界を信じていないからなのだ。彼らは人間の感情というものを信じていない。たぶん、そもそも自分の感情を信じていないのだろう。国益とか利権とかいう大きなものの前には、人の感情はたいへん小さなものに見える。だがその小さなものをないがしろにするとき、大きなものはすでに破綻しているということを、そのむなしさをむなしいと感じないことは、人としてなにかあわれなことである。
こうした声は、政治の世界においては一度も主流になったことはない。その意味では人の感情や良心というものは常に負けつづけているといえるが、しかしそれもまた人間の現実である。これは人間が、身の丈を越えた大きなものをいかに制御できないかということを示している。だから、そういうものを無理に扱うのはやめて、もっと身の丈に合ったものにすればよいと思うが、人間は簡単に自分の身の丈を自分で越えていってしまうので、きっと難しいだろう。
神を素朴に信じることは、もっと人間の身の丈に合った生き方のひとつにちがいない。わたしには明日のことがわからない。今日のことすらわからない。明日がほんとうに来るかどうかということも知らないが、ただ夜になると眠くなり、起きると日が昇っているので、すべてのものが新鮮に、輝かしく見え、なにか面白いものがないかと外へ出て行く。こうした子どものような信頼を世界に対して持ちつづけるとき、その世界では神がわたしになにか面白いものを見せようと待ちかまえている姿をたしかに見ることができる。Carpe diem……それはその日に神が与えるものを見るために、日ごと新たに外に出てゆけという意味である。無心に生きてさえいれば、神は毎日なにかをわたしに与える。新しい輝き、新しいよろこび、新しい悲しみ、新しい憂鬱。
わたしはそれを受けとる。喜びも悲しみも等しく恵みのように。よしこの国はアメリカという国とひどい協定を結んでいるとしよう。それでもわたしはアメリカの音楽を聴くだろうし、映画やドキュメンタリーを見るだろうし、小説を読むだろう。旅行に行くだけのお金はない。でもわたしはあの国の荒野をそぞろ歩いたことがあるし、コヨーテが吠えるのを聞いた。荒涼とした谷に月が昇り、悪魔がわたしの前にあらわれた。そいつはにやにや笑いながら、ひどく寒がってわたしの火に当たったが、悪魔も人が火を焚かなければ尻を暖めることができないとわかって、わたしは愉快だった。
「悪魔よ」
とわたしは云った。
「おう」
と悪魔は云った。
「どうしてそう悪さをするのか。罪のない者たちを苦しめるのか」
「おまえたちが苦しんだり、葛藤したり、怒りを燃やしたり正義を求めたりするのが好きだからさ。考えてみろよ、世界がエデンの園だとしたら、おまえたちはどんなに生きるのがいやになるだろう。おれは誰よりも、神よりも、おまえたちのことを愛し、おまえたちのために尽くしているんだ。おれを創ったのはおまえたちだ、おまえたちは心の底からおれが好きだし、おれが必要なんだよ」
そこでわたしは夜通しこの深遠なる客を歓迎し一緒に火に当たったが、空が白みはじめるころ、ふと気がつくと悪魔はいなくなっていた。