モーセ

 ひどく年老いて痩せ枯れた男が、とぼとぼと山を登ってゆく。裸足の足は汚れ 衣の裾はすりきれている。彼はぶつぶつ云っている。

「おれがなにをしたというのだ。おれに平和を返してくれ。名誉は豚にくれてやれ。ただ年老いたおれにふさわしい静寂をくれ」

 男の顔は深いしわに浸食され 厳しくこわばっている。屍蝋のような手で男は杖を握っている。その体は使い尽くされている。

「おれがなにをしたというのだ、神よ。おれに退屈な日々を返してくれ、あの奴隷の日々を。もしもエジプト人の手から同胞を救ったあのできごとがあんたの目に留まったのなら、あれは若さゆえの情熱だった。あのころはおれも若造で、不正を憎み愛に燃えていたのだ。だが神よ、おれは年老いた。あの情熱はもうないのだ。あんたは年をとることを知らないから、時とともに人間からどれほどのものが失われるか知らないのだ。永久不滅のあんただから、おれの老いた足の重さも想像できまい。おれに平和を返してくれ。おれはあんたの燃える火や雲や風でなく、こんなものを夢見ている。長く暑い日の終わりに、ささやかな夕食を食べ、寝床に転がる。どこかで子どもたちがはしゃぐ声がする。それをたしなめる母親の声がする。おれは夢心地でそれを聞く。だがこれはまぼろし、多くの人間にとって現実だが、おれには夢のような光景だ。このまぼろしのなかでなら、おれは人間にふさわしく年月を身にまとい、安らかに眠れたものを。おれの眠りを返してくれ。おれがなにをしたというのだ。なぜおれを選んだのだ。栄光も賛美もくそくらえ! おれはあんたを永久に呪う、老いることを知らず、情熱の衰えることを知らぬ神よ」