トビアの犬

 聖書には実にたくさんの美しい物語があるけれども、トビト記はそのなかでも特に美しいもののひとつである。先日書いた、わたしの好きなハンス・カロッサという作家は、子どものころ、学校で計算問題をどうしても解けなかった。また、なぜ聖書の美しいお話のほかにさまざまなことを覚えこまなければならないのか理解できなかった。そこで、思いきって計算問題をあきらめ、先生にこう打ち明けた。
「ぼくにはこの問題は解けません、その代わり、ぼくに若いトビアスと天使のお話をさせてください、それならまったく正確に知っています」
 教室はどっと笑いに包まれたが、この少年は自分がなぜ笑われているのかわからなかった。

 わたしもいまだに、どうして人が美しいお話以外のものを知らなくてはならないのか理解ができない。こうした人種にとって、トビト記のすてきなお話は、もはや友だち以上のものである。わたしもその物語をまったく正確に知っている。天使ラファエルのしぐさのひとつひとつを知っているし、天使がトビアになにを語り、なにを教えたかもすべて知っている。トビアと天使がどんなに睦まじく旅路を歩いたか知っているし、ふたりがどんなに互いを信頼しあったかも知っている。世界はこうしたもので満たされていればそれでいいのであって、計算するとか勉強するとかいったことは、わたしたちの世界には居場所がない。わたしたちは喜んで、そうしたものを自分たちのなかから追い払ってしまう。

 トビアと天使の話は有名だ。たくさんの絵にもなっている。トビトというユダヤ人の男は、よく神を信じ、善良で立派な人だったが、あるとき雀の糞が目の中に落ちて、目に白い膜のようなものが張ってしまい、失明してしまった。トビトは悲しみに沈み、死を願ったが、そのときふと、昔メディアに住むガバエルという男に金を預けていたことを思い出した。死ぬ前に、その金のことを息子トビアに告げてとり戻す義務を感じて、トビトはトビアを呼び、メディアまで一緒に行ってくれる人を探してその金をとり戻してきなさいと命じた。トビアが案内人を探しに外に出ると、そこに神の使いラファエルが立っていて、喜んで案内人になるという。そこでトビアはラファエルを雇い、支度をととのえて出発した。犬もともについて行った。
 ふたりは元気に進んで目的地に着き、トビトの親族の家に泊まった。その家にはサラという娘がいたが、悪霊にとり憑かれていて、これまでにもう七人もの夫をもったが、七人とも初夜の床で悪霊に殺されてしまった。トビアはラファエルのすすめでこの娘と結婚し、ラファエルの指示に従って、旅の途中で捕まえた魚の心臓と肝臓を香炉にくべて、その煙で悪霊を追いはらった。悪霊はエジプトの果てまで逃げていき、ラファエルは追いかけていって悪霊を縛りあげて戻ってきた。翌朝、女中がおそるおそるトビアとサラの寝室をのぞきに行くと、ふたりはすやすや眠っていた。
 みんなは十四日のあいだ婚礼の祝いをして過ごし、そののちにトビトのもとへ帰った。犬もともについて行った。トビアがとっておいた魚の胆のうを父の目に塗ると、トビトの目の膜が剥がれ、ふたたび見えるようになった。

 このお話のなかでどうしてもわたしの注意を惹かずにおかないのは、物語のなかでたった二度だけ言及される犬のことである。トビト記は全十四章からなる小さな物語だが、その中に二回、犬のことが出てきて、それぞれこのようになっている。トビアと天使が出発するときには「犬もともについて行った」、そして家に向かうときにも「犬もともについて行った」。犬についてはこれがすべてで、これ以上の描写はない。どんな犬なのかも、だれの犬なのかも書かれていない。ただ、犬もともについて行って、一緒に旅をして戻ってくることがわかるだけである。

 聖書時代のオリエントでは、犬は番犬や猟犬、牧羊犬として広く飼われていたようである。この犬も、おそらくトビアの飼い犬だろう。飼い主に忠実な犬で、旅にも一緒についてきたのだろう。それはいかにもありそうなことである。物語のなかでトビアが何歳だったかはわからないが、おそらくは絵画の影響であろう、わたしは昔からトビアを非常に若い男、ほとんど少年として想像していた。父の云いつけに素直に従い、ラファエルの忠告を無邪気に信頼するトビアの言動も、どことなく幼さを感じさせる。トビアの母親ハンナは、息子が無事に帰ってこられるかどうか疑っており、出発のときにはほとんど今生の別れのように泣いてしまう。危険のない道だと、案内人のラファエルが保証しているにもかかわらず。トビアが一人前の男なら、たぶんこんなに心配はしないであろう。

 トビアは実際、ほとんど小さい子どものように描写されている。古代イスラエルでは十三歳で成人だったので、あながち間違ってはいないかもしれない。トビアはやっと十四、五の子どもだったかもしれない。そしておそらくはサラも。そうすると、旅についていったあの犬は、トビアが子どものころからともに過ごし、ともに駆けまわった犬であるかもしれないのだ。人間とともに旅に耐えうる強さと分別を備えた犬、トビアはこの犬が子犬のときから自分の責任であずかり、世話をし、育ててきたのかもしれない。実際、子どもにとって、小さな生き物を自分で世話するほど豊かな仕事はほかにない。トビアはひとり息子であり、父の跡継ぎであり、未来の家の長である。トビトとその妻ハンナが、どれほど息子に期待をかけ愛したか、想像がつくというものである。そしてトビアは、この旅の時点で、その期待に十分応えうる人間に育ちつつあるように見える。彼の飼い犬を見よ。「犬もともについて行った」……この犬については、それ以上の描写は必要でない。元気に吠えながら、喜び勇んで、飼い主とともに冒険に出発する犬、そして飼い主とともに冒険をやり遂げ、ともに帰還する犬、たくましく、健康で、忠実な、賢い犬である。それを育てたトビアのうちに眠る、これから花開かんとするたくましさと聡明さを、先どりしているようにも見える。

 犬はついて行った。トビアと天使のあとを。古代人にとって、未来は背中にあった。それはまだ見えないから。彼らは次第に遠ざかる過去を眼前に見つめながら、いわば後ろ向きに歩いたのだ。トビアの後ろには犬がいて彼の道のりを励ました。傍らには神の御使いがいた。天使に守られ、犬に背中を押される美しい旅。それはトビアの子ども時代の、最後の平和な旅である。すべての子どもはあるときまで、天使に守られている。そのころその子が手がけたものは、夢中になってこしらえ、世話をし、手を入れたものは、その子の未来をあかししている。トビアは天使と犬に守られ、父の財産と妻を手に入れる旅に出た。危険は少しもなかった……否、魚を捕まえるとき、サラにとり憑いた悪霊を退治するとき、ほんとうは危険に満ちていたのであるが、無邪気なトビアはラファエルを信頼して少しも疑わなかったため、危険を感じることもないままに、なにもかもが無事に済んだのである。

 神を信頼するすべての人が、このようなやり方で旅を成しとげるわけではない。トビアは自分の道連れが天使であることを知らなかったが、ただ道を知っており、自分より経験があるというだけで、この人をなによりも信頼した。ラファエルがこれから行く家に暮らすサラという娘のことを話題にしたとき、トビアはその娘のことなど少しも知らなかったが、ただラファエルがその娘を妻にする資格があるのはあなただけだというので、それを信じたのである。そしてラファエルの云うとおりに悪霊を追っ払った……魚の心臓と肝臓で。もしもトビアが、「でも、なぜ魚の心臓と肝臓で悪霊を追い払うことができるのですか? あなたは実際に試してみたことがあるのですか?」などというような人だったら、悪霊は高笑いしてトビアを呪い殺しただろう。そのときには、ラファエルの計らいはすべて無駄になり、犬はトビアの墓の前で、しょんぼり老いぼれてゆくだけだったろう。

 神を信頼するすべての人が、トビアのようにできるわけではない。またその必要もない。聖書には、「なぜ魚の心臓と肝臓で悪霊を追い払うことができるのですか?」と訊かずにいられない人のために、神が差し伸べる手についても書かれている。でもそれはぜんぜん別の物語である。トビアのような人は少ない。だからこそ、彼には天使と犬がついていったのであり、この物語は美しいのだ。