わたしは地下にある広いダイニングバーのようなところで働いている。そこは表向きは飲食店だが、働いているのはみんなスパイで、諜報活動のために運営されている店なのである。
わたしはもう引退したか、退職したスパイで、いまは上司から要請を受け、助っ人として一時的に復帰している。男性の上司はわたしを仕事に戻したがっている。同僚の女性もわたしに戻ってきてもらいたがっている。だがわたしにはその気がない。
その店では、女性の制服はスカート丈が短く、体にぴったりした、かなり刺激的なもので、しかもハイヒールを履くことになっている。わたしはストッキングをはいた足をハイヒールに押しこみ、フロアでの仕事にかかる。フロアを動きまわりながら、客の会話を盗み聞きし、注文に応じ、グラスや皿を運ぶ。
仕事が終わると、上司がわたしのところにやってきて、ほんとうに仕事に復帰しないかという。わたしはスパイの仕事が好きだったのだろう、心が揺れ動くが、しかしいくら考えても答えはNOであり、わたしは笑みを浮かべて話を断る。同僚の女性が階段のところまでわたしを送ってきて、寂しげな顔で見送る。わたしは階段をのぼって、店をあとにする。
わたしの夢は、わたしという人間の職業をスパイにしたがるくせがある。
この記事の投稿日は夢を見た日付にしてあるが、この文章を書いているのは2026年である。六年近い歳月がたっているが、いま見返してはじめて意味のわかることがたくさんある。
2020年のわたくしは、なにか仕事をしなければと思っていた。わたしはいつまでたっても自活できない人間で、そしてたぶん今後も自活など到底できそうにないが、2020年当時は、なんとかしてなにかしらの職業に就かねばと思っていた。就職活動のようなものをしてみたりもしたが、しかしそういう場でつきつけられるのは、まっとうに就職しているような人たちに対して、異星人がなにか言っているとしか思えない自分というやつだった。わたしは職業安定所の職員や人材派遣会社の担当者や企業の面接官といった人たちがなにを言っているのか、少しも理解できなかった。
社会に適応することは、どんな人でもそれなりに苦労するものと思う。職業的な仮面をつけなければならないし、それに合うように自己を変えてゆかねばならないし、生きるためにはそういう作業が必要なのだとおそらく多くの人が思っているしわたしも思っていたのだが、しかし改まってなんでそんなことする必要があるのだろうなどと真面目に思ったり考えこんだりしてしまうと、話はとたんにややこしくなり、おそらくこの適応を曲がりなりにもしてのける人間と、それをいつまでもやりおおせない人間とでは、互いに異星人どころでない差が生まれてしまっても少しも不思議ではない。そういうことを意識的に自覚しなければならない人間にとって、自分をスパイだと認識することは、非常に愉快なやり方ではないかと思う。
この夢では、わたしはいやいやながらも一時的に仕事に復帰し、しかも露骨に性的な格好をしているわけである。女性性というものは、いまも昔もわたしにとって非常に難儀な課題であって、歩みは遅々として進まないのであるが、この当時はたとえ夢の中のスパイの仕事であってもとうてい受け入れられなかった、このミニスカートにハイヒールという格好を、実際やるかどうかはさておき、いまは心理的に多少受容できるようになっていることが、成長と言えるかどうか。そして結局仕事に復帰しないと言っていることの、その意味の重さを考えると、すでにこの頃から自分のなかで、並ならぬ戦いがはじまっていたように思う。
しかしそれ以前に、そもそも自分の見た夢などとりあげて、それと真面目にかかずり合っている人など、どちらかと言わないでもだいぶ変わった人ではある。人はその気になればどんなものとでも関係を結ぶことができるが、夢と関係を結ぶ人というのは、いったいどういう人間と言えばいいのか。

