ものの値段

 父がわたしの作った本の値段を聞き、わたしが値段を述べ、父にその本にどれくらいの手間をかけたのか、と聞かれ、わたしが答えると、それでは一冊2000円かそこらにしなければ割に合わないな、と父は云った。それもそうだとわたしは思った。

 ものに値段がつくということがどうもわからない。もちろん、いろんな計算があって、適正価格があるということはわかるが、小説や音楽や絵に値段がつくということになると、なんだかよくわからないことになってくる。そんなことする必要があるのかという気もするし、それがたとえば工業製品だとしても、その製品のアイディアをひらめいた人がいるとして、その人のそのひらめきには、おそらくその人のそれまでの人生が全部必要だったのだろうから、そういうものに値段がつくというのもなんだか変な話だと思うのである。

 こういうことがよくわからないので、ものの値段とか経済とかいうことが、なんだかいつまでもよくわからない。そのよくわからないもので世の中が成り立っていることを考えると、しかしかえってこの世らしいなと思ったりもする。

 法華経は諸法実相ということを説くけれども、その考えに従えば、あらゆる存在がそのまま真理の真実の姿なのだということになり、こういう歌も生まれるわけである。

この経の心を得れば 世の中の
うりかふ声ものりを説くかな

よみひとしらず

 この世のすべてが真理を映しているのなら、ものを売り買いする声も理法を説く声だということで、なんだかはっとさせられることである。ものの売り買いとそれにまつわるお金というものは特に扱いが難しく、人によっていろんなことを思っているし、よくも悪くもとらわれない態度を保つことは難しい。金持ちだからいいというわけでもないが、その反対に、清貧を貫いているからすぐれているというわけでもない。汚いものと切り捨てるのも極端だが、崇めたてまつるのもずいぶん極端なことである。
 そのどっちでもない場所に自分を置いておくのはなかなか難しいことだが、それも真理の姿と言われれば、わからんなあと言いながら、わかるときはわかるかもしれないし、わからないならそれはそれでよいと思っているくらいが、なんだかちょうどいいような気もする。