わたしは修道女で、なにかのパーティーに出席するために会場に来ている。シャンデリアの揺れる華やかな会場に入って(ただしわたしは相変わらず黒衣の修道女である)、人混みを縫って受付へ向かうと、受付にはわたしの憧れるひとりの修道女が立っている。彼女は非常に有能な修道女で、末は大修道院長になるだろうと目されているほどの人であるが、少しも驕ったところがなく、高潔な人格をそなえた人だ。
彼女は灰色の修道服を着て、灰色のずきんをかぶっている。大きなフレームの眼鏡をかけ、シャンデリアのきらきらした明かりに照らされて、にこやかに微笑んでいる。わたしは彼女に駆け寄り、声をかける。すると彼女は、わたしの声のするほうに顔を向けるのだが、目が動かない。両手がなんとなくそのあたりを手探りしている。彼女は失明していたのだ。
わたしは非常に強いショックを受け、動揺して、泣き出してしまう。なぜよりによって彼女のような人が失明しなければならないのか、理解ができない。だが彼女はわたしをなだめるように微笑んで、「こういうことも人生の一部なのです。わたしはこれを受け入れています」と云う。
わたしたちの後ろで、華やかなラウンジ用の音楽が流れている。
この偉大な修道女が盲目である意味は、のちのち判明する。わたしは人生前半のかなりの部分を、自分は修道女になるべきなのではないかと思って過ごしてきた。あるときそれは違うとはっきりわかったが、違うとわかったところで修道女のような生き方を好ましく思う気持ちまですぐに消えるわけではない。
ほんとうに修道女になるにも覚悟がいるが、ほんとうに修道女にならないことにもかなりの覚悟がいる。それぞれまったく違ったものを自分の方向性として受け入れねばならないし、そのどちらも受け入れ困難なものを多くふくみ、かつ多くの困難と痛みとをともなう。
そのどちらも神の子で、どちらも愛すべき存在であることに変わりはない。しかし、自分がどちらの人間なのか決めるのは神で、自分自身ではないことだけは共通している。

