寝る前に台所へ行ったら、小さなゴキブリが床を這っていた。とっさに殺虫剤を取りに走り、思いきりぶっかけて殺してしまったのだが、そいつは見苦しくあたりを走りまわったり、ひっくり返って悶絶したりしないで、台所の隅っこで静かに死んでいった。
死骸を片づけてベッドに入ったが、なんだか寝つけなかった。最前殺したゴキブリのことが妙に気になるのである。しばらくベッドの中でごろごろしていたが、突然気がついた。わたしはいったいなんということをしたのだ。
最前殺したゴキブリは、都会のゴキブリの半分ほどの大きさしかなく、わたしが電気をつけるとさーっと逃げていったが、シンクの黒いふちのところへたどり着くと、なにしろ黒いものだから、自分がすっかり物陰に隠れたものと思って安心してしまったようである。わたしが殺虫剤をとって戻ってきても、まだそこに安心してうずくまっていた。わたしはそいつに思いきり薬をぶっかけた。それはゴキブリにとっては思いもよらないことだったらしい。やややっ、とびっくりしたように動き出したが、ほんの10センチかそこら走っただけで、もうへなへなとくずおれ、丸まって動かなくなってしまった。
だいたいこのあたりの生き物は、みんな間が抜けているのである。ゲジゲジのやつは、こっちが部屋へ入っていくと、急に電気がついて明るくなったのにびっくりしてテーブルから落っこちるし、蛇のやつは、長い図体を自分の半分もないような小さな物陰に押しこんですっかり隠れた気になっているし、カエルはこっちが靴の底で踏んづけてしまいそうになっても、逃げもしないで相変わらずぼうっとあさっての方向を見ているしで、どいつもこいつもまったくのんきなのである。
これがたとえば都会のゴキブリであれば、こっちがいくら最新の殺虫剤をこれでもかと浴びせかけても部屋中をしつこくしぶとく逃げまわり、ようやくひっくり返ったと思っても、しばらくばたばたと見苦しくあがき続けたのちにやっと絶命する。都会の生き物はみんなそんな調子で、なんだか往生際が悪く、命根性汚く、悪知恵の回るようなのが多い。都会の連中には人間と生存競争をしているという明確な自覚がある。人間の文明に圧迫されながらも負けじと生き抜いてきた連中であるから当たり前かもしれないが。
このような都会の鍛え抜かれた生き物に比べて、わが故郷のものどもはなんというお人好しの、間抜けな連中だろう。こいつらは人間が自分に害をなすとか、生存競争に勝たねばならぬとか、そんなことはこれっぽっちも考えていないのである。
このあたりの動植物はみんなよくしゃべる。人を見れば話しかけてくる。人のことをよく見ている。家のそばの大きな杉の木は、わたしのやることを大概見ていて、いつ話しかけてもうんうん知っているよと言う。用水路を流れる水は、わたしが実家へ戻ってきたあたりに、水心という言葉もあるくらいで、水の違うところへは気安く出かけるものでないというし、すべてのものがなんだかこの調子で、ただおおらかで開けっぴろげで、自分の土地の者だと思うと、どこまでも深い情を示すのである。こんな土地では、厳しい生存競争だとか、血みどろの争いだとかいうものは、どこか別の世界の出来事のような気がする。
なるほど深い因縁や怨恨のようなものを秘めた土地もある。日本じゅうにそんな土地がおそらくたくさんあって、動物は気が荒く、虫たちも陰険で、鳥も美しいさえずりのひとつも聞かせないというような場所がいくらもあるのだろう。
だが自然がばかみたいに大らかで、生き物がみんな、人が自分に害を及ぼすなどとは少しも思っていないというような土地が、そんな楽園が、この地上にいったいいくつあるか。そしてわたしはそんな土地に住んでいるのである。このことをわたしは考えてみたことがあったか。ああわたしはいったいなんというものを殺したのか。あのゴキブリをなぜ殺したか。なんだって自分を信頼しきっている仲間を殺したりしたのか? それがどういうことだかわかっているのか。
わたしはしゃくりあげて泣き出した。どうか許しておくれ、許しておくれよ、許してくれ。自分の目の暗さに、いつの間にか別の土地になずみ、別の法則になじんだ自分の途方もない愚かさにほとほとあきれかえった。どうやってあのゴキブリに詫びたものか、想像もつかない。わたしはわたしを信頼しているものを殺したのである。この土地のものを殺したのである。都会のアパートに出てくる虫を殺したのではない。それは単なる殺生である。そんなものとはまるで次元の異なる罪をわたしは犯したのである。まったく言語道断の、どんな罪よりも深い罪をわたしは犯したのである。
こんなことを思って布団の中で大泣きに泣いていたとき、死んだゴキブリの魂がわたしの枕元に立ったのである。そして笑いながらこう云うのだ。
「あなたが最前ああなさったのも無理はないんです。この黒光りする体や長い触覚なんか、われながらなんという醜い、いやらしい姿だろうと思いますからね。前世でどんなひどい間違いをしでかしてこんな姿になったものか、わかりませんが、しかしあのときあなたに殺されるのがわたしの運命だったんです。でも、それがなんです。おかげであなたはどえらいことにお気づきになった。はっと目が覚めたような気がした。そのことをよくお考えになってくださらなくちゃいけませんよ。わたしの死が、あなたになにかひとつの気づきを与えた。死ぬということは、そもそもそういうことじゃないのですか。そうでないなら生き死になどなんですか」
わたしはここで生き、ここで死ぬ。このゴキブリほどの心を、生きているうちに持てるようになるだろうか。

