頼んでおいたイグナチオ・デ・ロヨラの自叙伝が来たので一気に読んでしまった。
イグナチオは三十歳までは貴族の末子らしい奔放な生活を送っていた。武勲や世俗の名誉を求め、さる貴婦人に仕えることを密かに夢見ていた。ところが、戦で大砲の弾に当たって怪我をし、大手術を受けて療養生活に入る羽目になったところから人生が一変する。彼は暇をもてあまして騎士物語が読みたいと思ったが、実家の城にそんなものはない。召使いがもってきたのは聖書と聖人伝で、それをぱらぱらめくって読んでいるうちに、自分も聖人のような偉大なことをしたいという気持ちが少しずつ芽生えてくる。そしてしだいに宗教的感情が高まってきて、苦行や霊的な活動を求める気持ちが深まってゆくのである。
エルサレム巡礼を夢見て療養生活を乗りきり、周囲の反対を押しきってエルサレムへ向かうが、そのやり方がふるっている。もし自分がエルサレムに行くことが主の御旨なら、自分はどうあってもエルサレムへたどり着くはずだとイグナチオは考える。したがって、もっていたお金は道々みんな施してしまい、まったくのノープランで旅をはじめるのである。なんとかローマにたどりつき、教皇に謁見を許されて巡礼の費用を受け取るが、金を受け取ることは主への信頼の欠如ではないかと不安になって、その金もみんな物乞いにやってしまう。それでもなぜかちゃんとエルサレムに着くことができ、永住して霊的生活を送りたいと思うが、許されず帰国することになる。
その後彼は神学や哲学の研究に打ちこみ、さらなる勉学の必要を感じてパリ大学へ行くことになるが、ここでかのフランシスコ・ザビエルと同室になる。イグナチオはすでに三十八歳、ザビエルは秀才で知られた社交的な、溌剌とした若者である。ザビエルは当然イグナチオを見下していたのだが、いったいなにごとが起きたというのか、もうひとりの同室の男、ファーブルが半年ばかり故郷で過ごして戻ってみると、ザビエルはイグナチオに忠誠を誓う男になっていた。
イグナチオは行く先々で人々に説教したり施しを乞うたりするので、何度も異端の疑いをかけられて逮捕されたり投獄されたりしている。が、その都度率直な態度で状況を打破する。彼には主がついていてくださるのだから当然だが、神に従うとはどういうことか、神を信頼するとはどういうことか、信仰とはどういうことか、こういう極地にいる人を見ると足元が揺れるようである。
イグナチオの自伝を読んで感じたのは、イグナチオが自己のなにげない感覚や感情の変化を決して見逃さず、それが神から来ているのか悪しきものから来ているのか絶えず弁別するように努めていたことである。これには非常に深い感銘を受けた。もしも神、ないし自分の運命をあくまで信頼し、それに身を任せきって、自分自身としてはなにごとも計らず、いかなる浅知恵をもめぐらさずに生きてゆくのであれば、なにが運命の声でなにが自分の浅知恵ないし悪魔の入れ知恵であるのかを、よくよく聞きわける耳を持たなければならない。そうでないと、いとも簡単にだまされ、足下をすくわれる。その注意をよくよく凝らしてはじめて、なにごとも安心して委ねることができるようになる。

