貝塚茂樹の『中国の神話』を読みはじめた。
中国には、中国人の現実的な気質や儒教の影響などがあって、神話らしい神話はあまり残されていないが、貝塚茂樹は古い文献を頼りに神話の再構築を試みている。これが非常に興味深いのだが、古代中国人は日本人と同じように、祖先神が山に下ってくるという信仰を持っていて、中国人はこの山の神のことを一つ目一本足の猿に似た怪物のように想像していたらしい。
この猿に似た怪物こそ人間の高祖であって、古代にはいたく崇拝されたようだが、この猿のお化けは天を支配する天帝の命を受けて地上に姿を現す、天と地との介在役ともされていたようである。
この猿のお化けはしかし、最初から一本足の不具者だったのではない。そうなったいわれは次のようなものである。
中国の西北の果てに、天帝のお創りになった崑崙山という、地上の楽園ともいうべき山があり、この山には一本の不思議な樹が生えている。この樹は不死の樹で、その根元には不老長寿の仙薬になる木の実ができる。この木の実を見張るために、天帝は人面蛇身で人の子を取って食うというおそろしい怪物を木の根元に置いていたのだが、あるときこの怪物が殺されてしまう。弐負神なる神が悪心を起こして、この不死の木の実を手に入れようと、配下の危という者の力を借りて、見張りの怪物を殺してしまったのである。
天帝はこれを知って烈火のごとく怒り、すぐさま危をとらえて右足に足かせをはめ、両手両足と髪を縛り上げて、山の頂上の木に吊るして永久に見せしめにした。
この危なる者こそが一つ目一本足の山の神であって、天に逆らい罰をくらった猿という点で、『西遊記』の主人公孫悟空との関連がすぐに浮かんでくる。神に逆らう妖怪猿なるチビの乱暴者は、容易に戯画化された人間として映る。
すべて人類がこの猿の宿命を身に帯びて生まれてくるとしたら、天より罰せられたわたしのかつての地位を、ふたたび回復させてくれるものはなにか。蛇身の怪物を殺した罪をあがなってくれるものとはなにか。危の仕えていたのが弐負神なるふたごころの神であったことが、そもそも危の運命を決定づけていたとも云えるが、となれば、われわれもまたふたごころのあいだで揺れる宿命を背負っているのも当前である。
この神話と創世記の記述との明らかな類似性を思うと興味深い。矛盾に満ちて不完全な乱暴者の猿はしかし、同時に神の使者でもあって、悪いものでもあるけれども、同時によいものでもある。

