大学一年のとき、とても美人な友人が東京へ遊びに来て、一緒に原宿の街を歩いたことがあった。そのとき気がついたのだが、その友人と歩いているといろんな人が声をかけてくるのである。テレビの取材、なんとやらいう雑誌、街頭インタビューのたぐいいやなにかが次々声をかけてくるので、わたしは非常に驚いた。そして改めてその友人をまじまじと見てしまったのだが、彼女はあまり気にしていないようであった。
しかしこの出来事はなにかわたしにただならぬ衝撃を与えたらしく、友人が気にならなくともわたしが気になってしまい、美なるものとはなんであろうなどと思いつめ、今道友信の『美について』を読んでしまうところがおそらくわたしだなのだが、当時はほとんど理解できなかった。
わたしに理解できたのはそれから何年もたってから読んだ『無量寿経』のほうで、阿弥陀様が、世に美醜の区別ある限りわたしひとりのみが悟りをひらくことはせぬと云った、この言葉の重みをわたしは忘れないが、しかし昨日たまたま必要に駆られてプラトンを読んでいたとき、プラトンが超越的な第一者として善を立てたのはなぜかということに対して、プラトン翻訳者の藤沢令夫先生が、イデアは美醜も善悪も良不良も区別なく存在している、しかしこの現実世界はそもそもが価値的なものであり、美を美として、醜を醜として知る、そのこと自体はよいことと考えてよい、その意味での「よい」がすなわちこの世界を成立させる根拠たる「善」と考えられないか、と書いておられた。
それでわたしはうなり、阿弥陀様の世に美醜の区別あるかぎり……の言葉を思い出し、価値判断から逃れられないこの世界ということを思い、その先を冷徹に見つめたお釈迦様のことを思い、たとえそうした価値判断がみんな空であると悟ったところで、この世界に暮らす衆生とそれが抱える悲しさというようなものはなくなりはしないなどと思いながら寝たのである。
そうしたら明け方に、次のような夢を見た。
わたしは青い海を囲むヴィラのような建物に来ている。空は青々とどこまでも広がっていて、海は青く輝いている。海風がすべてのものを優しく愛撫するようにそよいで通り過ぎる。ヴィラの前にビーチチェアが並んでいて、わたしはそこに座り、わたしの横の椅子には金髪の成熟した白人女性が座っている。中年らしいその女性はふくよかで、叡智に満ちた目をしている。彼女はなにかまぶしそうに海を眺めながら、わたしに向かって、ほんとうの、ありのままのあなたというものを好いてくれる人があるものだ、と云う。
わたしは目覚め、じっともの思いにふけっていた。この金髪の白人女性は、わたしのなかの叡智そのもので、この女性にわたしはこのときはじめてまともに出会ったのである。美人の友人からずいぶんなところへ来てしまったが、しかしこのときから、わたしはこの世で生きている自分というものに、なにか少しずつ信頼のようなものを寄せていったように思われる。

