荒波を進む

 わたしは透明な、驚くほど透明な、澄んだ美しい水の中にいる。その水の中は差しこんでくる光で輝き、透き通った青色に澄みわたっている。これ以上に透明な美しい水はないであろうとわたしは思い、しかもその中でわたしは少しも苦しくなく、ごく楽に呼吸ができ、いつまででもこの中でたわむれ泳いでいられる気がする。

 次の場面ではわたしは荒れた暗い海の上を、波に乗って進んでいる。当たりは真っ暗で、夜のようである。地震が起き、津波が起きて、わたしはその津波に乗って海を進んでいるのである。嵐が来ている。雷鳴がとどろき、ときおり雲間を通して閃光がピカリと光る。海は黒々と渦巻いて荒れている。だがわたしは少しも恐くはない。もうむやみに恐がるような歳でもないし、わたしの横にはわたしを導いてくれる人がある。その人の姿をわたしは見ない。わたしは前を見て、ときおり横へちらりと目をやり、ただその人の腕を見るばかりである。だがこのうえなく頼もしいその人が横にいて、一緒に進んでいるために、わたしはこの嵐の夜の、壊滅的な震災に遭ったあとの、どうしようもなく荒れ狂った海の上も問題なく進んでゆけるという気がする。

 ある偉大なマギが幼い少女に水泳を教えるとする。するとそのマギは次の三つのことを説くだろうと思う。

一、 水の中で気持ちを楽にしていられること
二、 水の中にいて、なおかつ水に溺れないこと
三、 水と一体となり、自在に泳ぐために必要な力

 いずれが欠けていても、少女はほんとうの意味で水に親しむことができない。この三つの条件を満たすためには、非常に長い訓練が必要になるだろう。マギは川べりでじっと待っているだけで、あまり手を貸してくれないが、それはマギが、自分が少女ではないことをよく知っているからだろうと思われる。水の中での立ち回りを覚えるのは、結局は少女の体であって、マギの体ではないのである。