わたしは学校で国語担当の女教師に好かれていて、いろいろ仕事を任され、仕方なくやっているのだが、ほんとうはやりたくない。その話を女性の分析家にすると、その分析家は、わたしがやりたくないというのは、わたしが自己中心的だとかいうことではなく、わたしにも愛はあるが、その愛はそういう形で人の役に立つのではないので、なかなかわかってもらえないかもしれない、あなた自身がそれをよく理解して自分をいたわらなければならないという。
次の場面では、わたしと女性分析家は、学校のらせん階段にいる。その場には男性の英語教師がいて、冷笑的にわたしを見つめながら、わたしにそんなに優れた能力があって優秀だとは信じられないという。すると女性分析家が、そのことなら証明できるというようなことを云って、自分が10階から飛び降りてみせる、そうするとわたしがちゃんと受けとめてくれるからという。そしてその女性分析家は、らせん階段から身を乗り出してもう落ちそうになっている。その姿はなぜかほとんど首つりをしているように見える。わたしはいつの間にか階段の下にいて、分析家が落ちてくるのは10階からでなく4階からだということを認識し、どうにか彼女を受けとめたらしい。分析家は微笑み、わたしたちは銀杏並木の中を一緒に歩いて帰った。
夢に出てきた女国語教師というのは、大学一年のときに英語の担任だった女性に似ていた。歳は60近かったと思うが、皆なんとなくその教師に反感をもっていた。そのときは理由がよくわからなかったが、考えてみたら、彼女は女版ロゴスの権化みたいな存在で、理屈と学問的威力の通る世界でしか生きてこなかったような印象を受けた。大学の英語教師にはこの手のタイプが何人かいて、わたしたちは陰でさんざんからかったものである。
が、よくわたしの夢の舞台になる学校というのが、要するにこのロゴスの権化の場なのだということを、今朝方ふと得心した。そこはこの教師のような女の居場所であり、一種の牢獄でもある。そこでは人は永久に学び続けなければならず、永久に及第点は得られない。しかも画一的な制服を着た少女たちがいくら努力して学んでも、その学びはどこかむなしく空回りする。女性的な献身や真面目さにつけこまれて、彼女たちは飼い慣らされてゆく。英語教師のような冷笑的な男が、不思議と彼女たちには魅力的に映る。このスマートでよそよそしく、冷たい男の歓心を買おうとして、少女たちがいかなる犠牲を払うかは、筆舌に尽くしがたいものがある。
女性分析家は50代くらいの、どこか母性的な匂いのする女性だった。薄桜色の女性用スーツに身を包んでいるのだが、入学式や卒業式にこういう格好をした母親がよくいる。もしもそうした式が現代においてなおイニシエーションの意味を失わないでいるとしたら、というより、わたしにとってそうであってくれればいいがと思う。

