美しい娘たち

 わたしはある人に誘われて、ウクライナから来た司祭がやっているという聖書講座へ行くことになる。時刻は夜で、わたしたちが会場である教会へ着くと、ウクライナ人の司祭(中年で押し出しのよい大柄な男)は門の前で待っていた。そこには何人かの信者たちが先に来ていて、日本人もいるが、ほとんどはウクライナ人のようで、どうやら司祭も含めてみな祖国から亡命してきた人たちのようだった。

 司祭はゴシック様式の教会についているバラ窓のような彫りのほどこされた、青銅かなにかでできているらしいどっしりした重たい門の前に立って、にこやかに来る人たちを出迎えていたが、そこへ司祭の娘だという、黒地に濃紺の刺繍がほどこされた民族衣装を着た若い娘ふたりがやってきた。娘たちは服と同じ生地のベールをかぶり、頭の上に銀のティアラをのせていて、そのティアラからは、銀色の鈴が両頬に垂れ下がるようにぶらさがっていた。彼女たちはほっそりとして、竹馬にでも乗っているかのように足が長く、言葉にならないほど美しくて、わたしたちのまわりをくるくると回り、衣装の裾をひるがえしながら通り過ぎた。わたしはその娘のひとりと目が合ったが、その蠱惑的なまなざしに強く惹かれ、この娘と親しくなるためならなにをしてもいいと思った。これから聞く司祭の話などより、この娘の手でも握っていたほうが、はるかに天国に近づけるのではないかと思った。

 そのうちに、わたしたちは門をくぐって中に入り、教室のようなところで司祭の講義がはじまった。司祭はウクライナからの亡命者にもかかわらず日本語がぺらぺらで、それは驚異的なことだったが、肝心の話がどうにも俗っぽくて、高速道路にうどん屋がいっぱい並んでいただの、つまらない話ばかりする。周りを見回してみると、しかし、みんなその司祭の話を楽しそうに聞いており、わたしの後ろに座っている知人なども楽しそうである。
 だがわたしは退屈し、あたりを眺め回したりしていたが、そのうちに、壁に空いた穴の向こうに火が燃えているのが見え、壁が蝋のように溶け出しているのが目に入った。わたしは仰天し、後ろをふり返ると、なんと閉じたドアの向こうでもさかんに火が燃えており、それが部屋にまで燃え広がろうとしていた。程なく周囲の人たちも教室の外が燃えているのに気づいたようだが、どうにもみんなのんきで、避難する必要など少しも感じないらしい。わたしはひとり逃げなければとあわてていたが、ここへ来てようやく司祭が、そろそろ講義を終えましょうといって、閉会の歌を歌うことになった。その歌はしかしわたしには建物の外から聞こえてくるもののように思え、しかも愛らしい女性の歌声であって、わたしはあの娘たちが外で歌っているのだと思った。

 法華経のなかに、燃えさかる火宅のたとえがあるのが思い出される。ある街に資産家がいて、その人に多くの幼い息子たちがあった。ある日、その人の家が火事になり、その人は慌てて外へ逃げ出したが、幼い息子たちは家が火事だということがわからず、外へ逃げる必要を少しも感じないで、相変わらず家の中を駆け回ったりして遊んでいる。そこでその資産家は一計を講じ、幼い息子たちを数々のおもちゃの話で魅了して、外へ出てくれば実際にそのおもちゃをあげるといって、無事息子たちを燃えさかる家の中から救出するのである。

「三界は、大きな苦しみと悩みという火の集まりによって、屋根と覆いが燃え上がっている老朽化した邸宅のようなものである」

 と法華経には書かれており、燃えさかる家の外に出ることは、そこからの救済を意味する。人々を救済する如来とは、ここではおもちゃにたとえられる数々の方便を用いて、なんとか衆生を救済しようとする存在である、というわけだ。

 わたしは確かに家が燃えているのに気づいているし、外へ出る方法も知っていそうである。そしてその方法が、決して教会の司祭などからはやってこず、むしろあの悪魔のように美しい、おそるべき娘たちから来ることをもまた、知っているように思う。