からし種

 わたしはどこかの会議室のようなところにいて、円形に配置されたテーブルに着いている。どうやら教師らしき男性を囲んで、数名で講座かなにか受講しているようである。その教師は、大学時代に講座を受講したことのあるドイツ語教師に似ている気がするが、ともかくいつの間にか、わたしはその教師と面と向かって話をしていて、その教師はどうやらわたしの分析家らしいのである。

 わたしは若く、これから社会へ出て行こうとしている女子大生かなにかのようである。わたしとその男性分析家は時間をかけてよく話しあいをしたので、分析家はわたしのことをたいへんよく知っているようである。それで分析家は、これから世の中へ出てゆこうというときには、どうしてもある種の不安に襲われるものであり、その結果ずいぶんおかしなことをしたりもするものだが、そうした経験はどうしても必要なものである、そしてそれでよいのだというようなことを言った。

 この男性分析家が、いったいどのわたしに話しかけたのか、考えてみるだけでとても面白い。

 わたしのような人種にとって、現実生活において自己を明かすということはたいへんなことである。このころある事情によって、わたしは多少、わたしがどんな人間かなどまったく知らないし興味もなさそうな人たちに向かって、なにがしかの自己開示をする必要に迫られたが、それはいってみれば、わたし自身がいかに標準からずれており、よその人と別の世界に身を置いており、その世界とこの世界に交流があるにはあるけれども、それは人によってはまったく無意味なもので、その無意味さをわたし自身知っているけれども、しかしそれでも一応はそういう世界に自分がいることを、相手の事情をいったん考慮のほかに置いてでも、おずおずと示してみなければならないというような、もうたいへんな綱渡りだったのである。

 この綱渡りを間違うと、わたしはどこかのエセ教祖のようになってしまい、もうまるで卑俗な見下げ果てた人間になってしまう。堂々自分自身をひけらかし、自分はいまどこを歩いているか、どれほど奥深いところを探索しているか、というようなことに自覚的になり、自信を持ちはじめたら、もうおしまいである。そうなると、わたしはくだらないエセ宗教の教祖になる。そうなる人は、自己の承認欲求がこのうえなく満たされて満足するだろうが、承認欲求というのもこの世の問題であり、神は承認などという次元を問題にしないことを考えれば、神が問題にしないものをわたしが問題にするという法はないことになる。
 この絶妙な綱渡りに対する勘どころのようなものは、だからどうしても必要なものであって、しかもそいつは非常に強固で多少のことではびくつかないようなものでなければならず、それゆえに一見、このわたしと現実の世界とを隔てているように見える奇妙な壁をいったい打ち破るのがいいのか、それとも共存するのがいいのか、さらに厚く丈夫にしてその中へ閉じこもるのがいいのかは、われわれのような人間にとって、まず人生第一の大事であると言ってよい。

 ところでこの壁というのは不思議な性質をもっており、それが当然そこにあるべきもので、こいつをどうかすべきか否かなど別に考える必要もないことを持ち主が悟ったときには、それはもうすでにその持ち主の一部になっており、ほとんど自分自身のごとくに自在な性質を兼ね備えるものになっているようである。
 からし種ほどの信心さえあれば山をも動かせるとイエスは言ったが、これはほんとうにそうである。ただからし種ほどの信心を自己の内部に作りあげ磨きあげるということ、そのための場所を自己の中に絶えず保持し、その中でこの信心というものを錬成しつづける、その行為を要請されること自体がひとつの試練であり、ひとりの人間には十分すぎるほどの試練でもある。
 イエスはいつ自分の中のからし種に気づいたか。それがいつの間にか自分のうちに結実していたことに、彼はいつ気づいたか。そしてその極小のからし種がそびえる山をもついに動かしてしまったことを悟ったとき、そのとき彼は微笑んだか。それとも苦笑をもらしたか。その瞬間に彼がなにを思ったか聞いてみたいような気がする。