逆向きに

 昨日、別の本を読もうとして、河合隼雄の『影の現象学』が本棚にあるのが目に入った。それを読む気はなかったのだけれども、こんな本を買っていた記憶がないなと思いながら読みはじめたら面白い。河合隼雄をはじめユング関連の本は、なんとなく読むタイミングというものがあるような気がして、自分から積極的に読もうという気にならないのが不思議である。
 ともかくも、非常に面白いので昨日今日と夢中になって読んでいたのだが、そうしたら昨日の今日で、トイレの排水がつまった。父とふたりして配管の点検口をのぞいたり水を流したりしていろいろしてみたけれども、どうもつまっているような、そうでもないような、不思議な具合なので、よくわからなくて業者を呼ぶことになった。が、結局業者もよくわからないということで、みんなして首をかしげて、まあしばらく様子を見ようという話で終わった。

 河合隼雄の本の中に、オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』が引用されてあって、ヘリゲルが弓の師匠に「あなたがあまりにも意志的な意志を持っていることが、あなたの邪魔になっているのです」と言われる場面が紹介されており、なんだか頭から水をぶっかけられた気がした。

 高校のころ、弓道部に入っていた。なんとなくやってみたくて入ったのだが、学生の弓道であるから、スポーツとして結果を残すという側面は確かにあったにしろ、弓道にはあまりそういうギラギラした目的意識のようなものがなかった。そして確かに、弓道には狙っていけば外れるというような不思議な側面があるように思われる。高校時代にはそうしたことがよくわからなかったのだが、いまならわかるような気がする。
 意志的な人間は意志の強さのゆえに助けられるが、その意志の強さのゆえに足もとをすくわれもする。自我の強さのゆえに助けられるが、それゆえにまた視野狭窄に陥りもする。目的のためには目的をもって目的のために行動などしてはならぬというのは非常に逆説的だが、これが自分のような人間には大いに必要なことであるような気がする。
 そしてどうもふり返ってみるに、わたしはそういう逆説を常に強いられている気がする。それは本来たいへんに合目的的なわたしの意識からすると非常に苦しいことであるけれども、わが合目的性がたびたび、というよりも絶えず失敗しつづけているところを見ると、わたしは目的などというものを持ってはならないし、それを意識してもならぬというような、なんだかマイスター・エックハルト言うところの究極の心の貧しさみたいなものを目指すように求められているようにも思える。

 エックハルトは説教の中で、人が自分を捨てて貧しくすることによって、神がその人のうちでその人に代わって働くようになるにしても、その「神が自分のうちで働く」という意識のあるうちは、それはほんとうの心の貧しさではないと言っている。人は結局は、神さえも捨てなくてはならないし、そんなもののことさえ知らないでいなければならない、と。

 わたしは彼がなにを言っているかわかる気がする。ここまで来ると、神の意図を詮索したり、人生の意味を求めたり、まして自分の人生の上に神がなんらかの恩寵を垂れているというような、そういう意識はみな害悪なのであって、自己に才能があるとかないとか、それをどう用いるかとか、そういう考えはまったく害でしかない。
 東のキリスト教ではタラントといって、要するにタレントのことなのだが、人はおのれのタラントを通じて神に奉仕するのであるというようなことが言われる。ところがここまで来ると、こうした意識ももはや切り捨てるべきものになる。わたしとはなにか。なにをするためにここにいるか。そういう問いを発するものそのものが、切り捨てられ、超克されるべきものであるということになる。ところがその超克というのは、そうした意識を一度極限まで推し進めてゆかなければ、決して見えてこないものなのである。

 ともかくこれは、あらゆることを逆向きにしなければならないようなことである。けれどもその逆向きというものが、どうもたいへんに自分向きなものであるようにも、なんとなく思える。