美意識

 わたしは東京から実家に帰省するところで、新幹線に乗る前にお土産を買おうとしている。母から人にあげるのに具合のいい土産品を2、3買ってきてくれと頼まれていたのである。あたりは広いショッピングモールのようで、わたしはあれこれと探し回り、ある店でこれはと思う菓子のつめあわせを見つける。箱にかわいらしい猫のキャラクターがついている。
 それを持ってレジへ行くと、なぜか名前を聞かれたので答えると、レジ係の女性が「承っております」などというので驚いて、もしかしてこれは予約品なのですかと訊ねると、そうですとその女性が言うから、それならその商品を予約していたのは同姓の別の人だと思って、レジの奥のほうを見ると予約票のようなものがあって、ご丁寧に顔写真までついている。その顔写真がわたしとはまるで別の女性なので、やっぱりこれは別の人のなのだと思ってそのことを店員に告げると、その人はなんでもないような顔で、「でも、いまキャンセル待ちが6人くらいなので多分買えますよ」などと言う。

 わたしは店の時計を見るが、時計は四時過ぎを指しており、わたしが乗る新幹線は五時に発車するのである。これじゃあきっとキャンセル待ちなど間に合わないだろうと思って、待っている時間はないことを店員に告げて、わたしはその商品を諦めて店を出る。
 しかしあたりはほんとうにうんざりするほど広いショッピングモールで、時間内にお土産を売っている店を探し出すのも大変そうである。母から課された課題をクリアするのは、なんだか絶望的な感じである。

 わたしの買おうとした菓子箱は宿命的に、たぶんもうほとんどわたしのものだったはずである。運命がそれを買ってよいという許可を出しているように見える状況だったにもかかわらず、わたしの倫理観というか、厳密に言えばこれは倫理観というより所有権というものに対する美意識の問題なのだが、それによって非常に不利なことになるにもかかわらずそうした美意識を優先させるということ、母からの課題をクリアするために運命が手を差し伸べてくれているのに、おのれの美意識を優先させてしまうということ、これはなんだかおそろしくわたしらしいし、同時にこのうえなく愚かしい行為でもある。
 損得で言えばこれは明らかに損である。たぶん課題にも落第する。けれども美意識は損得勘定とか人の感情を満足させるとかいうこととは全然別の領域のものなのだから、何度この手の課題を出されても、自己の評判というやつが犠牲になるだけだったらば、わたしはおそらくおのれの美意識を優先させる。それによっておのれの魂を失ってしまうとか、そういうよくよくの事態に遭っても、なんだかそうしてしまうような気がする。少し前だったら、わたしはこれを自分の気の弱さのためだと思ったに違いないと思う。けれどもよくよく吟味してみれば、これは気が弱いとか罪を犯すのが怖いとかいうこととはまったく関係がない現象だということがわかる。これがわかっただけでもたいしたものだと思う。