父が急に、うちの所有している山の場所を教えておくから来いというので、ついて行った。我が家は山をふたつ持っており、ひとつの場所は父も定かではないと言ったが、それはちょうど集落が消滅して本格的な山林に入る直前のところにあって、正確には山をまるごとではなくその斜面のうちの一面を持っているということである。
もうひとつの山は、これはわたしが小さい頃に祖父と行ったことのある山で、そのころは巨大な山だと思っていたが、いま見たらほんの小さな小山のようなもので、高さが五十メートルもないくらいなのである。
これには拍子抜けしたが、しかし不思議なことにどちらの山にも、すぐそばに近所の家の墓があって、それを眺めているうちに、わたしは自分のこの世での立ち位置が、そこにあらかじめ深く刻みこまれていたのだという気がした。
父はこれらふたつの山の場所をわたしに伝えたあと、集落の周辺にいくつかある、我が家の飛び地とでも言うべき土地をすべて見せてくれたが、その中に、立派な杉の生えている土地があった。家のまわりの杉は父が邪魔だといってみんな切ってしまったので、わたしはなんとなく寂しい思いをしていたのだが、これからはそこへ行けばいつでも杉の木々のあいだを歩くことができ、そうするとわたしはドイツかロシアの深い森の中にうごめいているクマみたいな気持ちになってきて、しだいに人間であることを忘れ、クマになってゆくことができるかもしれない。
そういえばこれまた不思議なことに、これだけクマの被害が連日報告されている秋田県にあって、わが町ではクマの人的被害はひとつも発生していない。わが町はかなりの面積が深い山の中にあって、かなり山奥のほうまで民家が点在しており、そういうところの人は真っ先にクマに襲われそうなものだが、まだ誰も襲われていない。わたしが父に連れられて山へ行ったときも、山にいる恐怖を少しも感じなかった。目の前はもう深くうねる山々が連なっていて、それは鮮烈な山吹色や赤色に狂ったように紅葉していた。いつクマが出てもおかしくないし、いつクマに襲われてもおかしくはないが、わたしは恐怖をおぼえなかった。この山を越えてずっと奥へ行くと、非常に歴史の古い神社がある。そこで毎年ちょうど今ごろ、巫女が神楽を奉納する神事が行われる。
巫女が舞う神社と、のんきなクマとそれ以上にのんきな住人と、山と死者の眠る墓とを、わたしはすべて持っている。この世にあるものでわたしのまだ手に入れていないものはなく、この世にあるもので、わたしがまだ知らないものはなにもない。物質的なものなら、わたしはほとんどなにも持っていないのだが、必要なものはというと、すべてある。そういう場所にわたしは生まれ、そういう場所で、わたしは死んでゆくだろう。これ以上に美しいことがどれだけあるか、ちょっと思いつけないくらいである。

