卑屈な者

 わたしはスーパーの警備員のようなことをしている。郊外にあるような広いスーパーマーケットで、わたしが巡回していると、どうも気になる中年の男がいたので、声をかけた。
 男には別に不審な点があったわけではない。万引きするようなしぐさをしていたわけでもない。ただなんだか気になっただけであるが、男はわたしの顔を見るとへらっと笑った。その笑いで、わたしは男が万引きするつもりだったことがわかったのである。
 わたしは男をスーパーの入り口まで連れて行った。そして説教をはじめた。あなたがあんなふうに笑わなければ、わたしはあなたを万引き犯だと気づかなかったであろう、なぜあのように笑ったのか、あの笑いのせいであなたは自分が犯罪者であることを暴露し、そのことによっておのれを貶めているのである、なぜあのように笑うか、あのように笑うとは、自己の人格と生命への冒涜でありその蹂躙である。云々。わたしは怒っていたのである。

 この卑屈な男に心当たりのない人はさいわいであるが、わたしには心当たりがありすぎるほどある。文学など目指す人の多くが、この男に心当たりがあるどころか、同胞に会ったような気になるのではないか。

 これを読んでいると、なぜか太宰治の『駈込み訴え』など思い出してしまうが、このような卑屈さはやはりどちらかというと男のものである。男のものであるということは、一周回って女のものでもあるということだが、さまざまある自我意識の病のなかで、この手の卑屈さほど男性的な感じのするものはなかなかないような気がする。おそらくその背後にあるものが、あるいはその卑屈さというものを生む意識のあり方そのものが、男性性をこよなく象徴するものに連なっているからではないかと思うが、夢のわたしがこの男に怒っているというのは、ともかく非常に面白いことである。黙っていればばれないのに、なぜ黙っていられないかと夢のわたしは怒っているわけだが、わかっちゃいるけど黙っていられない、自己の卑屈さを暴露せずにいられないというのがまたこの手の卑屈さの特徴なわけで、そこをつついてしまったら相手はそれこそ立つ瀬がなくなるわけである。

 けれどもこういうふうに怒ることは、女にしてみれば当然のことでもあって、なんだその男らしくないざまはと言いたくもなるわけである。こういう男を我に返すのは至難の業だけれども、ひとつだけ可能性があるとすればやっぱり女の平手打ちということになるのかもしれず、この男を叱り飛ばしケツを蹴飛ばすような女が自分のなかにいたことは、なんだか新鮮な気持ちがする。そしてその女は、卑屈さというものをまともに引き受けて生きてみなければ生まれてこなかったものであったかもしれず、あなたは価値ある人間だから卑屈になってはいけないなどと言われて大切に育てられたところで、この女のもつ強さを自動的に得られるわけでもないだろうと思う。