カジミール・マレーヴィチ

 ひょんなことからウクライナの画家、カジミール・マレーヴィチの『無対象の世界』を読んでいる。
 この人の絵はもうまったく具体的事物を離れて、感覚を表現することだけを目指しており(マレーヴィチによると、感覚だけが唯一人間にとって把握・表現できるものなのである)、画面は主として正方形や十字、直線などで成立している。
 ついこのあいだまで、具体を離れた絵についてはせいぜいキュビズムまでが理解の限界だと思っていた。キュビズムだって非常にあやしいが、あれはまだその思考過程を追うことができるような気がすると思っていた。ところが、最近抽象画の世界をさまよっていて、それらの絵をなぜか理解している自分に気がついて驚いた。いったいなにが起きたのだろう。こんなことが起こるとは思わなかった。

 そんなこんなでカジミール・マレーヴィチの本を読みはじめたが、彼には教えられることが多い。マレーヴィチいわく、芸術家には都会の芸術家と田舎の芸術家がおり、各人が持ち合わせている資質や表現形態に従って、ふさわしい環境があるというのである。芸術家をその人にふさわしい環境に置きさえすれば、芸術家は余計なエネルギーを使わなくてよくなり、創作に没頭できるようになる。

 シュプレマティズム(絶対主義、マレーヴィチによれば、対象のない完全な抽象絵画のことらしい)は都会の芸術、産業と工業の芸術である、とマレーヴィチは云う。そしてこの対極に、光と具象のもとで創作をする田舎の芸術家がある。都会の芸術家はすなわち思想と理論との芸術家で、田舎の芸術家は大いなる自然に依って立つ芸術家だ。これらは互いに真逆の価値観を有し、百八十度違う人間なのだが……理論や科学のほうへ決して進むことのできないタイプの人間がいることは、彼も学生を使った実験によって確かめている……この両者が互いの領域で力を尽くし、それをぶつけあうことによって、芸術は豊かになり得るというようなことを彼は書いている。

 この理屈で行けばわたしなど完全に田舎のタイプである。だからマレーヴィチとは対極にいる人間であることになるが、異なる立場に与する者どうしであるマレーヴィチとわたしとが、不思議とまるで同じようなことを考え、共鳴しあうような感じを随所で受けるのは不思議なことである。でもこの人はわたしと同じ誕生日をもつ人なので、こういうことがあるのもそれほど不思議ではないかもしれない。

 マレーヴィチは、たとえばこんな絵を描く。
 なんだか素敵なのである。