おぼろげな夢であるが、ひとりの女、この女はなにか重大な犯罪を犯して捕えられている女なのだが、ともかくその女が、人々に向かって、これは悪魔のせいなのだ、悪魔のやつが人に罪を犯すよう仕向けるのだ、このようなことはまったく悪魔のせいなのだが、あなた方は信じまいし、あなた方にはわかるまい、と訴えていた。その女が話すあいだ、わたしはその悪魔の顔を見ていたのであるが、それはわたしがよく知っているもののように思われ、女が糾弾し、人々が恐れるほどには、恐れる必要のないものであることを感じていた。
もちろん、悪魔はおそろしい。悪魔というのはまことに油断ならないものである。そうではあるけれども、しかし、このところ夏休みと称してホラーゲームとホラー映画三昧をしていて気がついたのだが、このホラーというのも、どうもつきつめると笑いにつながる性質をもつもののようである。笑いはわれわれの感情にとって最後の砦であると同時に、その壁の外には聖なるものが満ち満ちている、という性質のもののように思われる。悪魔も神も一緒くたに畏怖すべきものとして扱えば、それらは結局のところ、みな聖なるものということになり、その差はあるようでほとんどない。
もしかすると、わたしは神に近づこうとして、実は悪魔に接近しているかもしれない。だがそれは大した違いではないように思われる。両者を厳格に二分すると、人間にとって致命的なことになりかねないという気がする。人間の道徳における罪と、神のまなざしにおいて罪とされることとは、ときに明確に異なる。それは重なることもあるが、重ならないことも多い。なんとなれば、人間の世界で罪と規定されるものを通じて、神はあらゆる試練と慈悲と恵みとをこの世界にばら撒いている、ということもあるのだ。
そう頭でわかっていても、実際に罪の行為に陥ることは、できれば避けたいものである。しかしそれが避けることのできない運命である場合には、それを真正面から受けとめることのできる人でありたいものである。

