作家という生き物

 スパイをしている軍人が、重々しい顔つきで、円卓に並んだ自分の部下たちとひそひそ声で相談している。やがてスパイの軍人は小さくうなずき、命令を了解した彼の部下たちは部屋を出て、それぞれの任務のために散っていく。

 わたしはそのシーンを眺めていただけであり、軍人の部下ではないはずだが、そのあとで、なぜかわたしもスパイ活動をしている。任務をはじめるにあたって、わたしは倫理的な葛藤に苦しむ。そこで、梅原猛先生を訪ねて、その葛藤を打ち明ける。梅原先生は白髪の穏やかな老人という、晩年の姿をしており、わたしの話を聞いて微笑み、静かに、しかし深くうなずいた。そこでわたしは先生の美しい庵を出て、自分の仕事をしに出ていった。

 梅原猛は偉大な思想家だが、実は梅原先生の本で一番印象に残っているのは、彼の思想そのものではなくて、次のような話である。

 梅原は戦時中、学生だったころ、疎開先でのちに作家となる吉行淳之介に出会っている。ずっとのちになって吉行と対談することになったとき、梅原はそのことを吉行淳之介に告げたのであるが、向こうは覚えていなかった。だが、それからしばらくして、吉行淳之介が別のインタビューかなにかで、「ぼくは昔、疎開先で哲学者の梅原猛に会ったことがある。深い霧の中から、哲学者然とした若者が出てきたのを覚えている」と語っているのを目にした。
 たいていの人は、おまえこのあいだ覚えてないと云ったじゃないか、といって気分を害するか、失笑するかだろう。ところが梅原先生は、なるほど作家というのはこういう生き物なのだ、と考えるのである。吉行淳之介の発言は確かに嘘といったら嘘だが、しかし作家にとっては、これは嘘とか記憶違いとかいう問題で片づけられるものでない。吉行淳之介は、霧の中から哲学者然とした若者があらわれたという話を創造し経験したわけで、作家というのはそういう創造を真実として生きている人たちなんだと梅原先生は思ったわけである。

 この認識ひとつでもって、救われる作家というのがごまんといるはずである。わたしが夢のなかで梅原猛に出会い、彼の美しい庵へ行って、自分の倫理的葛藤というやつを打ち明けた、ということは、それはそういうことであって、それを現実に体験したかどうかなどどうでもいいことである。吉行淳之介にとっても、自分が哲学者の青年と若いころに出会っていたという、その事実から彼が引き出し創造した経験が大切だったのであって、それが他者の記憶と整合性がとれているかどうかなど、まったくどうでもいいことである。

 作家がほんとうに語り、人と共有したいのはこの経験のほうである。そしてその経験は、夢のはたらきによく似ている。
 ラフカディオ・ハーンが、このことに関してとても美しいことを述べている。

諸君が人並すぐれた想像力の持主なら、創作の感興を求めるのに、けっして書物にはたよらぬがよい。それより、諸君自身の夢の生活にたよりなさい。夢を細心に研究して、そこから感興をひきだしなさい。日常生活の「彼方」にあるものを扱かう文学では、夢はあらゆる美しいものの源泉である。

――「小説における超自然の価値」平井呈一訳