わたしは実家の古い家の二階にある寝室で祖母と話をしている。祖母はとても若い。たぶん60代くらいの時の祖母だ。わたしが小さかったときの祖母である。わたしはたぶん20代だ。大学生かもしれない。
祖母はわたしに、自分はあることに600万円も投資した、と言った。わたしはそんな金がどこにあるのかと驚き、いったいなにに投資したのか訊ねた。そうしたら祖母は、自分はどうしても文章を書けるようになりたかったので、その勉強会のようなものに合計で600万円くらい払ったというのである。わたしは驚くと同時に憤慨した。そんなものに600万もかけるとは愚かしいにもほどがあり、またそんなものに600万も出させるほうも、あくどいにもほどがあると思った。
次の場面では、わたしはオフィスビルのロビーのようなところで、置いてある石のベンチに座って膝にパソコンを載せ、左手にスマホを持ってなにやら調べている。祖母から金をむしり取った悪徳業者の名前を検索して、正体を暴いてやろうとしているのだが、どうしてもその名前が打てない。パソコンでもスマホでも打てない。いらいらしながら何度も打ち直すがやっぱり打てないのである。
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600万とはすごい額だが、実際には、人間がものを書けるようになるまでには600万どころでない金額がかかっている。ピカソは、30秒くらいで紙ナプキンの裏に描いた絵を、わたしはこれを45年と30秒かかって描いたのだといったが、まったくそのとおりで、わたしは37年かかっていまこれを書いているのである。人の芸や技は、人の生きた年数分の重みを背負っている。人間は生きただけの時の重みを背負っている。それはもはや金額でも数字でもなくなり、計量することも、数値化することも不可能なものになる。
この祖母という人は、わたしの女性性を象徴し言祝ぐために夢に出てくることがあり、この夢ひとつでも、女というものが言語を操ったり論理的思考など駆使するために、どれほどの犠牲を払っているかがわかるというものである。
このことを考えると、いまのわたしはなんだかいたたまれなくなってきて、もうものを書くことなどやめてしまったらいいと思うし、そんなものは別に無理してまで獲得すべき技術ではないと思うが、獲得してしまったものは仕方がないし、それをとりけすこともできない。そのために払った犠牲をなかったことにすることも、決してできはしない。それは生きているかぎりわたしの体に残るのであるが、こういうものを業というのだすると、業というやつはつくづく業としか言いようのないやつだと思うし、そんなものに絡みつかれて簡単に自分を見失ってしまう人間というやつも哀れだと思うが、それが人間だと言われればまた、そうだとしか言いようのないものだとも思う。こんなものの正体をネットで検索して調べようとしたって、できるわけがないのだ。
ちなみに8月30日は祖母の誕生日である。夢という御仁は、ときどきこういう妙に気の利いたことをする。

