大量出血

 わたしは大きな病院のなかにいる。周りの人の話によると、わたしはだいぶ長いこと入院していて、なにか手術をしたらしいが、わたしはそのことを覚えていない。

 ある日、担当の看護師がパソコンをもってやってきて、わたしにインターネットの書きこみを見せてくれる。その書きこみをしたのはポーランドの医療関係者の女性で、わたしが手術で大量出血をしたこと、しかしそれに耐えぬいて赤ん坊の命を守ったこと、などが、わたしを絶賛するような調子で書かれている。
 それを読んだあと、わたしは病院のなかにいる母のところへ行って、どうしてなにも教えてくれなかったのか、赤ん坊はどうなったのか、と詰め寄る。だが母は穏やかに笑いながら、わたしがびっくりするといけないので、黙っていたのだという。

 女のやることはたいてい血まみれで、なにかというと血の話になるのだが、しかしこういう夢をあとから見返すと、自分がいかに危ういところを辛くも切りぬけてきたかということがよくわかる。しかも本人にはその自覚がほとんどないことが多く、のんきなことに、なにが起きていたのかも知らないことが多い。

 この年の2月に、わたしは長年住んでいた東京を離れて故郷へ戻ってきた。これがまったく間一髪のあやういところだったので、あと一年も都会で暮らしていたら、わたしはまったくどうしようもない人間になっていたかもしれない。いまとなっては、別に都会が好きなわけでもなかったのに、何年もよく我慢して暮らしていたものだと思うが、当時は都会にさえいればなにかしらのチャンスはあるのではないかというような、よくわからない考えに半ば支配されていたのでもあった。

 都会暮らしも田舎暮らしも、ある意味でその人の宿命である。宿命にはどこまでも逆らうこともでき、その行為自体がまたその人の宿命であるという場合もあるが、ときに血を大量に流して死ぬほどの目に遭って、はじめて目が覚めるということもある。しかも女の場合には、その労苦のうえに子を産むということまでやってのけることもある。生命というのは強いものである。