工作

 わたしは旧家で工作をしていて、粘土かなにかで丘の上に建つ家のようなものを作っている。丘も家も無事完成し、最後にワンピースを着た女の子の人形を作って、家の上に串で刺した。
 そうしたら父がやってきて、わたしの手から出来上がった作品をとり上げ、家の屋根に登っていって、どうせこれは誰かの真似をして作ったのだろうと云って屋根の上から落としてしまうのである。
 それはたしかに手本を見ながら作ったのである。というか、ほとんど手本と同じような出来の工作なのである。それはそのとおりなのだが、わたしは怒り狂って叫んで目を覚ました。

 絵を描きはじめたり、自分があまり親しんでこなかった技術を新しく習得しようとするとわかるのだが、みんな最初は真似からはじまるのである。そして手本の下手な二番煎じみたいなのができあがるが、初心者であるからこれはどうにもしようがない。
 しかし問題は、それを出来が悪いと断じるわたしの理性であって、心のほうは純粋に絵を描くことを楽しんでいるはずなのだ。しかしそういう楽しみみたいなのが往々にしてどこかへ行ってしまい、いかに本物らしく描けるかとか、いかにそれっぽい雰囲気を出すかとかいうことばかりに執着しだすから始末が悪い。
 絵に加えて、ご先祖の所蔵していた千字文を見つけてしまったものだから、今日はとうとう書道をはじめてしまったが、わたしが書道を通じて理解したいことというのは、うまく字を書くことではなくて、筆という道具を通じて理解できるかもしれないわたしの東洋の身体というやつのはずだ。
 それにもかかわらず、わたしの頭は往々にしていかに美しい文字を書くかということにばかり注意が向きがちになる。しかし文字の美しさは結果であって、目標ではない。わたしの中に住みついている美術というものに多少精通した批評家が、わたしの楽しみをなにか非常につまらない価値的なものに貶めようとするようだ。

 これはなかなか治療の困難な病である。だが午後遅くに散歩に出たら、田んぼで白鳥どもがいつものように、別に意味もなく羽ばたいたり飛んだり鳴いたり好きにしていて、人間の切望してやまない意味や価値判断やなにかなんて、ちゃんちゃらおかしい代物なのさと云っていた。まあそれが人間ってやつなんだろうけどねとも、彼らは云っていた。