わたしは洞窟のようなところにいて、そこは炭鉱のように人ひとりが通れるくらいの一本の道というか穴が続いている。壁のところどころにたいまつか小さなランプのようなものがついていて、洞窟はほの暗い。わたしの後ろには人の長い列ができていて、人々はみんな黒っぽい、修道女の着る修道服のようなものを着ている。
いまその洞窟内では、列の後ろの人たちから順に殺されつつあって、なにが人々を殺しているのかは明らかでないのだが、とにかくなにかが一列に並んだ人々を順番に殺していっているので、われわれは洞窟を先へ進んで逃げているのである。わたしはその列の先頭を行っているが、手には聖書を持っていて、その言葉を必死にたどりながら急ぎ足で前へ進む。だが突如行き止まりにぶち当たってしまい、目の前の壁を呆然と手探りする。
その次の場面では、わたしはガラス張りの近代的なビルの中にいるが、相変わらずわたしの周囲は修道女のような人たちでいっぱいで、われわれはいまおごそかにみんなで聖書を読み上げようとしているのである。わたしはうやうやしく聖書を手にとり、自分が真っ先に読みはじめる係だと思って声を上げるが、周りの人たちがいっせいに声を上げて読みはじめるので、大声を上げてそれを中断させる。そして自分がまずはじめに読むから、あなたたちはそのあとに続いて読んでくださいと云って、咳払いをし、聖書の一節を声を上げて読みはじめようとするところで夢は終わった。
—
はじめにロゴスがあった。ロゴスは神とともにあった。ロゴスは神であった。すべてのものはロゴスによってできた。できたもので、ロゴスによらずにできたものはなにひとつなかった。ロゴスのうちに命があった。この命は人間の光であった。
ヨハネ福音書の冒頭であるが、神学的にはこのロゴスとは神の言葉すなわちイエス・キリストのことであり、万物は彼によって成ったということになっているわけだが、このイエス・キリストなる御仁に六歳かそこらのころに不用意にも結ばれてしまったために、わたしがいかなる困難を身に帯びたかは云うまでもない。
この人はわたしの生命である、というのもロゴスはわたしの生命だからである。わたしはロゴスの働きなしには自己を少しも表現することができない。ロゴスは自己表現というわたしの生命の中の生命である。ロゴスはわたしの生命線である。しかしここ数日、わたしはイギリスの詩を読んでいる。それはひとつの詩を探し当てるためであったが(春の生まれる国へ行きたかった、というような、極めて曖昧な一文を探そうとしていた)、その詩が少しも見つからないかわりに、わたしはそれらの詩の言葉にわがロゴスから遠く隔たった地平を見た。
もちろん、詩人たちは言葉を用いて表現するに散文家より数段すぐれた人たちであるに違いない。というより、彼らは一部の小説家のロゴスとは、まったく別の源に端を発するロゴスを扱っているのに違いない。それはロゴスであるか? 表面上、詩人の扱っているのは確かにことばである。しかしそれはわたしの知るロゴスではない。ロゴスはわたしの生命だ。しかしその生命は、なんという青ざめた死のような生命であることだろう。それはなんと鋭く、不寛容で、荘厳な存在であることだろう。それは人を次々に斬り殺すだろう。そして絶えざる礼拝と犠牲とを望む。わたしの生命はロゴスである。わたしは彼を愛する。しかしそれはいつの間に、かの悪魔崇拝と寸分違わぬものへと堕したのか。わたしは知らぬ間に、ファウストのようにメフィストフェレスと契約を結んでいたのではないか。自分ではキリストに結ばれたつもりで。
キリストの花嫁とは誰か。なぜキリストに結ばれたものは花嫁と呼ばれるか。かつてわたしはこの表現をまったく異様なものに思ったのだが、キリストを自己自身として着る者は、確かにキリストを愛しキリストに焦がれた花嫁である。その者はキリストの足跡をたどり、キリストの痕跡を求めてさまよい、キリストの忘れ形見の服を着て舞う……『井筒』のなかで、紀有平の娘がそうするように。
ところでわたしとキリストの関係とはなにか。わたしは彼を愛するが、それは愛というより、きわめて対決的ななにかだった。わたしと彼は上下関係にない。我々は同じ水平にいて、対話する。彼はわたしに数々の問いと試練を投げ、わたしはそれに応じつつ彼と議論を重ねた。それは関係のひとつには違いない。そして関係の奥底には、なにがなし愛というものがひそんでいるのには違いない。しかし聖テレジアのような愛はそこにない。彼女の恍惚はそこになく、彼女のエロスはそこにない。わたしは青ざめた、乾いた地にいる。聖テレジアが百合の花咲くシャロンの野にいるとしたら……わたしはシャロンのバラ、谷間の百合、キリストに愛で結ばれた者はそう云う。そして彼らは雅歌の詩を理解する。一方わたしはキリストのロゴスを理解する……その力を理解する。その万能の力を理解する。この世界を創造した力を。しかし、それはシャロンの野に咲く一輪のバラを、谷間の百合を、理解することは決してできないのだ。
今日、なぜか除雪機の操作方法を父に教わりはじめた。これは五感を総動員してかからねばならぬしろもので、頭で考えているととても現実に追いつかない。いったいに、わたしは身体感覚を要求するものは苦手である。自分の体がどこにあるかすら定かでないのに、それを使えとは無茶な要求だと、子どものころから思っていた。体は不気味だ。この世界は不気味だ。現象はすべて不気味だ。それゆえに、ロゴスは世界を観察し記述することでなんとかそれを自身の側へ引き寄せようとする。それは一面では、世界をわがものにしようとする非常な努力である。世界への意志であり調和への努力である。しかしその努力は常に破れる。現象は常に彼の理解を超える。このとき閉じこめられていた修道女たちはバラの花咲くシャロンの野に解き放たれ、谷間の百合を見て、それが聖女の象徴などでは少しもなくて、単に美しい百合という花であることを知る。
—
これはわたしにとって決定的な夢だった。この夢はわたしを打ちのめしたが、こうして打ちのめされることは、絶対に必要だったのである。

