ニーチェ

 急にニーチェのことがわかるようになり、ニーチェを読みはじめた。カリール・ジブラーンがこの人のことを絶賛している意味がようやくわかった気がする。どうしてこの男はこんなに芸術家とは何かということがわかるのだろう。『悲劇の誕生』の中でニーチェは、ディオニュソス的なものとアポロ的なものという対比から勢いよく跳躍して、ディオニュソス的なものとソクラテス的なものなる対立を持ち出す。これはつまり自然的なものと理性的なもの、情念的なものと論理的なもの、もっと大胆に飛躍すれば女性性と男性性、とでも言うことができるが、なんとなくめまいがするようである。

 ところで本の解説を書いている人は、そういうことが理解不能であったらしく、やや呆然としながら、こういうことは天才のおそるべき発想の飛躍というよりほかないというようなことを書いている。ニーチェに学問を軽視する態度のあることを問題だとする人の意見も書いている。その人によれば、理論的なものすなわち学問的なものを軽視した先にナチスがあるのであって、情念などというものを放っておくとろくなことにならぬということである。

 たしかに、情念はろくでもないしろものである。でも理性というもの、人間の論理的力というものは、ニーチェの言うようにしょせんは限度があって、その限界を超えてこの世の向こうにあるものを見ることが少しもできないと、具合の悪いことが多くある。しかしそれは、やはりもはや学問ではないということになろうか。

 ところで鈴木大拙が、世の多くの人は自身の道徳的生活から超越的経験を区別しそこなっているというようなことを書いていた気がする。このふたつは区別できるし、またできなくてはいけないが、人間のなかにこのふたつを区別する土台を作るというだけでもなかなか一大事で、一度はそれにかかりきりにならなければ得られないような技術でもある。その習得コースは、自然に生きていれば人生の側である程度用意してくれるはずだが、そのコースは晩年のニーチェが陥ってしまったような危険ととなりあわせでもあるわけで、やはり足を踏み入れるにはそれなりの覚悟が必要なことではあると思う。