この記事でクロックタワー3の話をしているけれども、これは当たり前の意味でのゲームプレイ日記とか考察とかいうものではないので、万が一検索で引っかかったりしてこの記事にたどり着いた方は、もっと適切な場所へ移動されることをおすすめします。
この出来事のあった4日後に、片道二時間もかけて、はるばる新しい産婦人科にかかりに行った。東京でも実家へ帰ってからも、いろんな産婦人科を渡り歩いたが、産婦人科、とくに婦人科の病気というのは、女の人生そのものと切り離せないみたいなところがあって、その治療というのが通りいっぺんの西洋医学的対処ではすまないみたいなところがあり、現代の科学に基づいた医学とは、あまり相性がいいとは言えないようである。
婦人科の病気はとかく病歴が長くなりがちで、歴史が長いし苦しみも長いから患者の話も長くなりがちだし、人によって症状もまちまちで、訴えがあやふやなことも多く、診察するのにたいへん手間がかかるくせにろくに金にならなかったりして、経営や効率ということを考えたときには、まあやっかいなものだろうと思う。でもこれは致し方のないことであって、資本主義というやつが、そもそもすべての基礎となるはずの、人間という存在を産み育てる過程を勘定に入れ忘れたのがいけないのである。
人間を産み育てるのが女という生き物とその体であるわけだが、なにしろ資本主義は人間を生み労働者として通用するようになるまで守り育てるという、非常に重要かつ必要不可欠なはずの行程にあまり気を配ってこなかったので、その不具合が全部女の側に集中するのも当然なわけである。女の体というものや、人間の健全な心の成長というような、金にも時間にも換算しようのない領域のことを扱う段になると、資本主義というやつはまごついてしまって、なんとなく理屈をつけて押し通すというような、非常にあやふやなやり方しかできないので、しかし理屈は理屈だから、なんとなくそれっぽく聞こえてしまい、それじゃあ理屈に合わないほうがおかしいのかとか、真面目な人は思ってしまうわけである。
なんだか話が飛んでいきそうだが、実はそう飛んでいるわけでもないので、とにかく女の体というものは効率とは無縁だし、合理性や科学的思考ともあんまり関係がなく、女がいやと言えばいやで、だめと言ったらだめで、やると言ったらやるので、そこに理屈をつけようとしても無理なように、こういう理屈でないものを無理に理屈で押し通そうとすると、非常に苦しいことになるわけである。
女は感情的だとか、理屈が通じないとか、そういう言葉はこの文脈で使われるときにはじめて意味を持ち、真理の一面をのぞかせるので、それじゃあ感情的でなく理屈の通じる男というものは、感情的で理屈の通じない女というものを前にして、いったいどうするのかという問題も出てくる。女はすでにかなり、感情的でなく理屈が通じる存在になりつつある。しかしそれは一面、非常に苦しい適応を強いられていることにもなるので、女の病気というものは、いかに医療が発達していようとも、その医療というものが女の生命を無視した理屈であるかぎり、どこまでも孤独であるし、さびしいものである。
その孤独とさびしさを理解するために、わたしは長年婦人科をめぐり歩いたのかもしれない。それはわたし自身の、自分の生命や女性性に対する無理解のあかしであって、よい医者を見つければ病気が治るというのは、少なくとも婦人科の病気の場合、おそらくうそである。腕のいい医者にめぐり会えればみんな治してもらえる、楽になれるというのは幻想で、自分の体を治すのは自分しかいないのだが、そのことに気がつかないままいくら医者に頼っても、それは結局対処療法でしかなく、もっと言うと「治る」ということ、つまり「病気を自分の体から排除する」というその考え方がほんとに正しいかというような問いかけまで、病気というものは含んでいるのだ。おまえの生き方は正しいか。おまえの思う正しさとはなにか。それはほんとうにおまえの生き方なのか。そんなことで、おまえはほんとうに病んでいる自分をもとに戻すことができると思うか。そもそも、おまえはなぜ病んでいるのか? ほんとうに病んでいると思うか。
女の体は生命なのだから、生命からのいろんな問いかけや期待があって当たり前である。現代社会に適応して生きていると、そういうものの居場所があまりなくなってしまい、非常に苦しい思いをすることになるが、ありがたいことにその苦しみをなんとかする道もまたあるので、わたしはこないだひとつその問題についての卒業証書をもらったように思った。
新しくかかった婦人科が非常によく、ピルを処方してもらうことになったのだが、その名前がアリッサだった。アリッサというのは、テレビゲーム『クロックタワー3』の主人公の女の子である。なぜ断言できるかというと、今年のはじめから無性にそのゲームがやりたくなって、実家にあるディスクを引っぱり出してきてずっとやっていたからで、しかもほかのゲームがあらかた本棚の奥にしまわれていたにもかかわらず、このゲームだけはいつも目につくところにあって、わたしは無意識にこれを奥深いところにしまうことができなかったものと思われる。
クロックタワー3は、クロックタワーシリーズという有名なシリーズものの三作目で、1、2と作っていたゲーム制作会社のヒューマンが倒産してしまって、権利を買った別の会社から売り出された。わたしはクロックタワーシリーズがほんとうに好きで、昔からずっと遊んでいるのだが、この3だけは制作会社が変わってしまったこともあって、操作性やゲームそのものが大きく変わってしまい、アクションの苦手な鈍くさい人間には実質クリア不可能みたいなゲームになってしまった。
クロックタワー3の発売は2002年12月だが、わたしは当時、クロックタワーという名前がついているだけのまるで別のゲームをやらされて、正直裏切られたような気持ちになったものである。結局早々にプレイを断念し、このゲームは以降23年ものあいだ、テレビ台の棚のひとつに置かれることになった。
翌年の2003年はわたしが大学に入学した年で、実家を離れたのでゲームそのものをあまりやらなくなったと言えばそれまでだが、しかしれから23年もこの作品を眠らせていたとはあんまりと言えばあんまりである。しかしある意味で、23年もかかったというのも仕方のなかったこととも言える。
わたしと婦人科の病気とのつきあいは、大学時代にさかのぼる。大学3年のとき、婦人科の病気ではじめての手術を経験した。それから現在に至るまで婦人科の病気に翻弄されつつ生きてきたわけだが、その長い対立の関係を終わらせたアリッサ・ハミルトンという女の子は、ゲームの中では15歳になる直前の女の子で、もとは伯爵家の家系に連なる由緒ある生まれの子である。
ハミルトン家に生まれた女性たちは、代々ルーダーと呼ばれる特別な能力をもった存在となり、魔のモノと呼ばれる悪いやつらと戦う宿命を負っている。そしてこれが非常に面白いところなのだが、人が真の魔のモノになるためには、自分と血縁関係のあるルーダーの心臓をえぐり出し、生き血をすする契約の儀式という儀式をあげる必要がある。
物語の中で、アリッサは実在の連続殺人鬼をモデルにした快楽殺人者や、猟奇的な人殺しを好む、魔のモノの配下と呼ばれる残虐な敵と渡りあう。このゲームのラスボスは、アリッサの心臓を狙い、契約の儀式をあげて魔のモノになろうとしている人物だが、それはアリッサの遠い祖先にあたる人でもあり、アリッサの祖父自身でもある。男の暴力性と途方もない自我肥大とに、アリッサは体ひとつで立ち向かわねばならない。彼女を助けるものは、代々伝わってきた聖水を入れる精霊のビンだけで、このビンが一定の条件を満たすと武器に変化して、アリッサははじめて敵とまともに戦えるようになる。その際のアリッサの武器は弓矢である。
アリッサはどうやら、アルテミス女神のようだ。そのイメージが、どうも彼女について回る。弓矢をとり、狩りをする高潔な処女神、ルーダーは15歳でその能力のピークをむかえ、以降徐々に衰えて、二十歳を過ぎるとその力を完全に失ってしまうというが、その設定が示唆するものが非常に面白い。ゲームを一度クリアすると、アリッサを古代ギリシアの衣装を模したような服に着替えさせて遊ぶことができるが、純白の衣装に身を包んで走り回るアリッサの姿は、まことに美しく高貴なものがある。
過酷な運命を背負った少女にもかかわらず、アリッサは天真爛漫で素朴な明るさを失わず、彼女を助けてくれる幼なじみのデニスの存在も、(ゲーム中ではあんまり役に立ってるように見えないが)アリッサには心強い存在である。このデニス少年は、昔は泣き虫でいじめられっ子だったらしいが、そのやさしい心根はそのままに、戦いに身を投じるアリッサに感化されたのか、しだいに男としての自覚と強さを身につけてゆくのもよい。その強さが、決して拳をふりまわすタイプの強さではなく、身を挺して人を守ろうとする強さであるのもよい。
アリッサを操作して、アリッサが戦うものと一緒に戦い、アリッサが打ち破るものを一緒に打ち破ろうとしていたら、わたしはいつの間にかいつぞやの夢を見たときに感じていた試練を、どうにか無事に乗り越えたものと思われる。アリッサという名前のピルを処方されたとき、わたしはどうやら自分が無事にまたひとつ、狭き門の前に立つ門番をやり過ごし、たいへんな難所を切りぬけたことを知った。自分では少しも気がつかなかったが、いつの間にかずいぶんな仕事をやってのけたらしかった。
そしてそれがなにかは、相変わらずわたし自身には少しもわからないのだが、ともかくわたしにひとつの卒業証書めいたものが与えられ、わたしは観音さまに病気を治していただいただけでなく、アリッサというひとりの少女と、その少女が象徴するものと、一種の合一を果たし得たことを思って、しばらくのあいだ、なんだかこの世にいないような心地を味わったことだった。
こないだ同じ婦人科に二回目の診察に行ったとき、貧血だというので鉄剤を処方してもらったが、その名前がリオナだった。これも面白い偶然だと思って、というのも、葉月里緒奈という女優さんがいるが、子ども時分にその名前をはじめて聞いたとき、女の名前といえばノリコだのヨシコだのいう名前しか思い当たらなかった自分にとって、そのリオナという名前があんまり美しく思われ、あんまり尊いものに思われて、なんだかぼうっとしてしまったことがあった。
以来そのリオナという名前は、わたしのなかに不滅の印象を残すものになったが、そのリオナまでもがわが病のため、それを癒やすためにやってきてくれたわけで、なんだかわがうちなる高貴な女性たちがよってたかってわたしを治しに来てくれたというようなあんばいで、まったくありがたいことだった。
この美しく高貴な女性たちを、わたしは長年、ほんとうに長年無視して生きてきたのだが、彼女たちのほうではそんなことは少しも気にしていなくて、わたしに詫びのひと言も要求しなければ、これまでに被ってきた数々の冷遇、虐待をどうにかしろとも少しも言わない。女の中に、そういう無限の慈悲や許しを可能にするものがたしかにあって、その一部に、わたしはおそれながらもようやく触れたところである。
クロックタワー3に関しては、なんだか言いたいことがたくさんあり、ほかにもゲームについて言いたいことがたくさんあるから、そのうちわたしのなかに抜きがたい印象を残したゲームのことも、いろいろ書いていこうと思っている。

