わたしは知り合いの作ったアニメ作品を見ている。王朝期を舞台にした作品らしい。小さな愛らしい子どもが、ある貴族の家にもらわれていくのだが、その子が貴族の家に来てからというもの、その家に怪異ばかり起こる。ものが壊れたり、人が病気になったり、ついには変死体が出たり火事が起きたりする。家の人たちは、その子どもを疑いはじめる。だが、天真爛漫な美しい子で、とても物の怪のたぐいには見えない。
やがて、その子の正体が発覚する。夜、貴族の前にその子が座っていて、あたりには何人かの女房や側女たちがいる。みんな楽しく会話していたのだが、話題が近ごろ家に続く怪異のことになり、女房のひとりが、ふとその子への疑いを漏らしてしまう。するとその子は急に興奮して、自分がそんなことをするはずがない、自分はこの家の怪異に一番心を痛めているんだといって泣き出す。貴族がなだめようとするが、その子は火がついたように暴れまわり、目が次第にぎらついてくる。そしてその子の目の中に燃える火が現れ、その子は目から火を噴き出す。次いで、口からも火を噴く。そして、あたりをみんな焼き払ってしまうのである。
こういう子どもを自分のなかにひとりも飼っていない人がいたら、その人はたぶん幸せな人である。この子どもがこわいのは、この子はほんとうに自分が化け物だということを知らないということである。自分にどんなおそろしい能力がそなわっているか知らないということは、ある意味幸福なことであるかもしれないし、それがこの子の精神を守っているのかもしれないが、しかしどんなにそれから目を背けていても、やはりいずれは誰かにばれてしまうものである。
ちょうどこのころ、わたしが大変好きなある人が、わたしのある能力に嫉妬して、非常に苦しんだことがあるということを知った。それはわたしが恐れていたことであり、自分自身の存在というものがもし誰かを傷つけるとすれば、そんなことはあんまり悲しいことであり、そういう事態を避けるためにも、人間というものはあまり目立たずにひっそり生きているほうがよいとわたしは思っていた。
しかしそういうわたしの意思にかかわらず、恐れていたような事態を引き起こしてしまったということは、わたしはある意味で自分が怪異を引き起こしていると知らないこの子どものようなもので、実は夜な夜な我が物顔で暴れまわっているのに、昼間の当人はそのことを少しも知らないでいた、ということになる。しかもこの夜ごとの大暴れというものは、昼間のわたしが抑えよう、抑えようと思っていればいるほど大きくなってしまうたちのものである。
どんな能力も、人間に宿ればそこに優劣というものがどうしてもついて回る以上、非常に危険なものであり得る。だからこそ阿弥陀様が、世に美醜や優劣なんてものがあるうちは自分だけ悟りを得ようなどとは思わないと誓ったりもするのだが、そしてその誓いはほんとうにありがたい、尊いものであるのだが、いま現にそういう世の中を生きている自分という人間が、なにかしらの能力を得ようとしたり発揮しようとしたりした場合には、まったく途方もない罪のなかに身を置く危険と隣り合わせなのだということを、忘れないようにしたいものである。
その人に備わった力は、なるほどひとつの賜物であると言える。それを与えたのがなんであれ、それがどんなものであれ、それはひとつの恵み深い賜物であるはずだ。だがそれを発揮するときには、いい意味でも悪い意味でもだれかの心を打たずにおかないことは、忘れないでいなければならない。それはなるほどわたしの責任ではない。だが現実だ。そしてすべての感情は人であることの証だ。この平等とはほど遠い世の中で、なにかをなすということは、まったく美しいことであると同時に、まったく罪づくりなことでもある。そしてそれでも人はなにかをしなければならない。行為しなければならない。このような世界に生きているわれわれには、神仏の憐れみがどれほどあっても足りないくらいである。

