わたしの好きな講談師に一龍斎貞水という人がいる。人間国宝に指定されている。Covid-19のために予定されていた講演がすべて中止になってしまい、期間限定でYou Tubeに動画を公開してくれているので観ていた。
一龍斎貞水の講談をはじめて聴いたとき、わたしはなぜか祖母のことを思い出していた。それからは、一龍斎貞水の講談を聞くと、わたしは必ず祖母のことを思い出してしまう。
祖母は無類の語り手である。祖母の語りはどんな芸を積んだ芸人にも決して真似のできないたぐいのものである。それは方言のリズムであり、祖母の生きた生活のリズムであり、祖母の魂のリズムである。それは重く深い。しかし軽妙でありおかしみに満ちている。それは祖母が耐え忍んできたありとあらゆる労苦を思わせる。その忍耐を思わせる。それは雪のように静かに降ってきていつの間にか人を押しつぶす重みである。しかし、その重みを受けないならば水は豊かに流れず大地は芽吹かない。すべてが溶けて消え去った春には、われわれは野に出て踊るであろう。ウサギやタヌキと踊るであろう。蝶は舞い、小川は歌うであろう。その喜びを夢見て、われわれ大地の上のものは忍耐するのである。
この祖母の深い魂がなければわたしは生きなかったであろう。その口から出る息がわたしを生かしたのである。昔話のかたちで、はげましのかたちで、食事に呼ぶかたちで。誰もわたしのようなかたちでは祖母と結びつかなかった。わたしたちはひとつであって、いまでもひとつである。祖母は腰まわり豊かで、ガニ股であった。誰もわたしほど祖母のガニ股に抱きつかなかったであろう。誰もわたしほどそこに愛着をおぼえはしなかったであろう。
祖母はもう十年も前にぼけてしまって、いまではなにもわからないが、内臓が丈夫なのでまだ生きている。わたしはひとつの確信をもっている。わたしがほんとうにひとりだちするまで、祖母の肉体は死なないであろう。わたしはそれを知っている。そして祖母の肉体はまだ自分の役目が終わっていないことを知っていて、その腰のまわりにまつわりつく子どもがまだいることを知っていて、まだくたばるわけにゆかぬと思っているのだ。この人を安らかに旅立たせる責任はわたしにある。ほんとうに、このことはわたしにかかっている。

