大和国の価値観

 ふとドン・キホーテに出てくるマルセーラの話を思い出し、読み返す。ドン・キホーテが遍歴の旅の途中、山の中で羊飼いたちに出会うのだが、その羊飼いたちがドン・キホーテに語って聞かせる話である。
 マルセーラは、近くの村のたいへんな金持ちの家に生まれた娘で、早くに両親をなくし、叔父である司祭のもとで育った。世にふたりといないほどの美人で、長じるにつれ多くの男性を虜にし、求婚者が引きも切らなかったが、ある日彼女はふいに美しい着物やなに不自由ない生活をきっぱりと捨てて、自由気ままに野山をかけまわる羊飼いになってしまった。
 だが彼女の美貌は羊飼いになったところで世間から隠し通せるものでなく、彼女の姿を求めて多くの男たちが山に押しかけ、彼女を追い回し、彼女に惚れこむあまりみずからも羊飼いに身をやつして、なんとか気を引こうとする者も後をたたなかった。だがマルセーラは冷淡にもそうした男たちの誰にも応じようとせず、相変わらず羊飼いの格好をして山々を走りまわっている。ついにグリソストモという評判の学生が、マルセーラに恋い焦がれるあまり死んでしまい、明日その埋葬があるのだ、という話である。
 翌日、ドン・キホーテは羊飼いたちとともにグリソストモの埋葬を見に行くことになるのだが、そこへマルセーラが自己の弁護のために登場する。グリソストモの死をわたしのせいにするのは間違いであり、それは理不尽なことである、とマルセーラははじめる。

「今のわたしにそなわっているこの美しさは、別にわたしが選んだものではないんです。つまり、わたしが望んだわけでもお願いしたわけでもないのに、神様が無償でこのような美しさをお与えくださったのだ、ということを御理解ください。毒蛇が毒をもっているからといって、なるほどそれで人を殺しはするものの、その毒が自然によって授けられたものであってみれば、とがめられるいわれはないのと同様、わたしも美しいからといって非難されることはないはずです。慎み深い女性の美しさというのは、言わば、遠くの炎、あるいは鋭利な剣のようなもので、それに近づきさえしなければ、火傷をすることも怪我をすることもないのです。貞操と美徳は魂を飾るものであり、この二つをそなえていない肉体は、たとえ美しくても、まともな人間の目には美しく映らないでしょう。すなわち、慎み深さこそ肉体と魂を最も美しく飾る要素の一つなのですが、そうだとしたら、美しいがゆえに男に好かれている女がどうしておのれの慎みを棄てなければならないのですか、それもただ自分の快楽のために力と知略の限りをつくして、わたしに慎みを棄てさせようと努めている男の意を迎えるために?
 わたしは自由な人間として生まれてきました。そして、自由に生きるために人気のない山野を選んだのです。このあたりの山の木々がわたしの友だちで、渓流の澄んだ水がわたしの鏡です。わたしは樹木や小川に向かって思うことを話し、自分の美しさをさらけだします。わたしは遠くで燃える火であり、彼方に置かれた剣なのです。わたしの姿を見て恋心をつのらせた殿方たちの迷いを、わたしは言葉でもって覚ますように努めてまいりました。恋の成就に対する願いというものが希望によって支えられるとするなら、わたしはこれまでグリソストモにも他の人にも、つまりわたしを恋慕した殿方の誰にも希望を抱かせたことなどありませんから、あの人を殺したのはわたしのつれなさでは決してなく、むしろあの人自身の理不尽な執拗さであったと言うほうがよほど理にかなっていましょう。

セルバンテス『ドン・キホーテ 前篇一 (岩波文庫)』牛島信明訳

 ここには自由な意志で生きる女の矜持があり、自己の美しさを偶然恵まれた恵み以上のものとは受けとらず、それによって自己を左右されもしない女の、かぎりなく解放された精神がある。彼女はこう云うことを知っているのである。「わたしは美しい、でもそれはわたしの問題ではない。わたしの美しさに焦がれる人がある、でもそれはわたしの問題ではない。わたしはわたしの問題ではないことでわずらわされることを望まない」
 彼女の自己弁護はその場にいた者たちに感銘を与え、ドン・キホーテはなんとすばらしい女性であろうと称賛する。

 今日たまたま、馬場あき子の『鬼の研究』を読みはじめたが、その中に、高貴な人の求婚を断りつづけてついに鬼に食われた美貌の女の話が出てくる。『日本霊異記』に収録されている話で、大和国のとある村に住む非常に美しい女が、高貴な人々の度重なる求婚にも応じずに歳を重ねていた。だがついに、彼女に非常に高価な贈り物を贈った中央の貴族が、その両親の心を射止め、初夜を過ごすために彼女のもとへ通ってくる。ところが、翌朝両親が目覚めてみると、娘は頭と指を残してみな鬼に食われており、贈り物の絹は獣骨と化し、貴族が乗ってきた車はぐみの木となって投げ出されていた。

 馬場あき子はこの女の身に起きた事件を、「村中の批判が頂点に達した時に起きており、(中略)多くの怨みや、怒りを一つにしたような報復的なしわざ」と考察しているが、先のマルセーラの自己弁護と引き比べてみるとき、まことに考えさせられるものがある。

 マルセーラはひとり野山に出て羊飼いとなり、男たちを前に言葉を尽くして自己弁護し、それはわたしの問題ではない、と主張することができる。わたしの美貌も、あなたがたの欲望も、わたしのせいではない、わたしにはそれらの責任はない、と。

 だが大和国の女は、それを許されない。この女自身それなりの身分の家に生まれており、当時は通い婚だったから、客観的に見たとき、この女が手にしている自由の程度はマルセーラとそれほど差がないように思われる。だがこの女はあくまで家に付属する政治の道具であって、その分をはずれたふるまいをするとき、憎まれ妬まれ、鬼に食われるよりほかなくなる。

 馬場は本書を「鬼と女とは人に見えぬぞよき」という『虫愛づる姫君』に出てくる一文からはじめている。女が人目に見えるときなにが起きるかをめぐって、洋の東西のこの違いは大きい。もしも現代日本国の女が大和国の価値観を超えて、ドン・キホーテ的な世界に、すなわち、言論というものが真に力を持つ世界に踏みこもうとするならば、われわれは歴史をひっくり返し、価値観を大転換させねばならないのである。
 その大転換は、一見ずいぶん進んだように見えなくもない。つまりわれわれはすべてのものの母胎でありあらゆるものを包む女であることをやめて、それはわたしの問題ではない、それはわたしのものではない、と云うことを学ばねばならないということになる。男には、自分のものでないものが多く存在しているであろう。だが女にとって、ほんとうに自分のものでないものなどこの世にあるかどうか、わたしにはちょっとわからない。