夢のなかで、使徒パウロががっしりした木のテーブルについていた。パウロ! 彼が夢に出てきてくれるとは! パウロはテーブルの左端の席にゆったりと腰を下ろして座っていた。彼の右にはわたしと、ふたりの大学生のような若い男が立っており(現実の知り合いではない)、辞書を囲んで必死にページを繰っていた。わたしたちはパウロにふさわしい言葉で話しかけなければ失礼になると思っており、文法の誤りがないように必死に前置詞だの冠詞だのに気を配って文章を組み立てようとしていた。
わたしたちはだいたい以下のような会話をした。
パウロ「わたしはきみたちと話がしたいのだが」
われわれ「どうかもう少し時間をください。あなたにふさわしい言葉で会話できるように、いま調べているところですから」
パウロ「まだかかるのかね?」
われわれ「ちょっと黙っていてください、いま調べているんですから! (内輪で)この動詞の使い方からいって、前置詞はこれでいいと思うんだが……どうも自信がない、間違っては失礼だし……こんな会話もできないのかと思われてしまっては……そんなことは敬意に欠けるよ、なにしろ……」
使徒パウロはこの間、ちょっと愉快そうな、皮肉げな顔つきでわれわれを見守っていた。われわれは、使徒パウロがそこにいて、われわれにわかる言葉を話せるにも関わらず、彼と会話をするよりも、彼にふさわしい(とわれわれが考える)言語によって、彼にふさわしい(とわれわれが考える)会話をすることに心を砕こうとしていた。パウロは話をしようと思ってやってきたのだが!
知性は泥の中にいるロバよりも役に立たない――ルーミー。
聖パウロと共通の言語をもっているにもかかわらず、夢のなかのわたしたちはパウロに正しいギリシア語で話しかけようとしていた。たしかにパウロに向かって正確なギリシア語を話せたら、さぞ気分がいいことと思うが、夢の中のパウロは日本語で話をしていた。それがすべてのはずだが、正しいギリシア語に夢中になっているわたしたちは、こんなことにも気づかないのである。
ロゴスはロゴスに対立する――ギリシアのことわざ。

